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昔から好きだったのだが、竹内まりやの「駅」を最近Youtubeでみつけ、聴くたびに嗚咽するという情けないざまを電話口で漏らしてしまっている。なにが引き金になっているかといえば、全てといえば全てなのだが、たとえばレインコートの後ろ姿、足早に歩く姿、まぎれもなく昔愛した人、懐かしさの一歩手前でこみあげる苦い思い出・・・とくれば全く冷静さを失って落涙するはめになる。涙のスウィッチ。
なんでこんなに涙もろくなったか。愛犬はるが逝った時以来なのかもしれない。 ただの涙腺がもろくなってのことでなくて、やっぱりほとんど嗚咽するわけで、だらしねえなの一言だがしかたがない。
パソコンのキーボードが使えなくなり、あれこれやった挙げ句、もうこれできりをつけて買い換えることにした。同じDELLの製品でオークションから適当なのを選んで入札。明日には結果が出るというあんばい。もうこんなことに関わっていたら読みたい本も読めない状態だったが、ともかく選んだのが、イタノ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』というもの。カルヴィーノには『なぜ古典を読むのか』があったが、どうも追いつけないものがあったところが、先日松岡正剛がTwitterで僕が会いたかったひと、イタノ・カルヴィーノ、世阿弥、サンテグジェペリ、与謝野晶子、ヘルマン・ワイル(未詳)、宮城道雄、ニジンスキー、懐素(未詳)、ジャン・コクトーと並べていたのに引っ掛かって、ガルヴィーノを選ぶことにした。
この著は全く奇怪で、いきなり「あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている。」と出だす。自分の小説の出だしをこんな書き方で始める人を食ったような作品は初めてである。 しかしどうやらうまくつきあえそうな気がして読み続けているところであるが、調べるに興味深い作品が網羅されていて、暫く彼との付き合いは続きそうな気がしている。 そもそもイタリア文学で何かこれはというものはないかと探していた矢先に出会ったのだが、正剛がこの作品を取り上げているので、簡単に決めてしまっただけのことで。 漸く戻った平静のうちに読書と文筆に明け暮れられる気配に安寧しているという心情である。
桜も散り、外は小春日和。でもコンビニ行ったぐらいで家に籠もって、電話したりのらりくらり。さてブログでも書こうかとキーボードを弄りだして、あっと驚くタメゴロウ!全く反応せず。冗談も顔だけにしてくれとおもってあれこれデバイスやらなにやら、いや単純に掃除機でゴミをすいとればと思ってやってみれば、ホンの僅かに反応ありだったがそれ以後全く。とうとうきたか。このDELLのノートも十年選手。よくやってくれたよ。孤軍奮闘すること7,8時間。ここまでやれば諦めもつく。今DELLの製品は5万円台で買えるんだからおどろいちゃったよ。
残された機能をつかって、いつかは元に戻るかもしれない。あせらず、あせらず。
散り掛かってきた札幌の桜。五月の連休も終わり、勤労者は五月病に苛まれながら仕事に向かうのだろう。サイクリングロードまで散歩に出かける友人からのメールを読みながら、ふと坂口安吾の『桜の森の満開の下』を思い出して読み返してみた。これは単に森に住む鬼と都からかっさらった女の奇妙な話に過ぎないと思い込んでいたのが、今回読んでどう読み解いたものやら人間の奥に深奥に潜む何かであろうと思い至った。最後のくだりでこう綴られる、
「桜の森の満開の下の秘密は誰にもわかりません。あるいは『孤独』というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。」 ここだけ読んでもそこに至った彼の心情は理解できまい。女は怖ろしいとか、桜の下は二人連れでなければ通れないとか、言い尽くせない感慨がもやもやと蟠ってきてしまう作品である。 久々に活字をうってみて、まだまだ僕のリハビリは始まったばかりだという感慨だ。
パソコンがアウトになって以来、無線ランの設定に四苦八苦し漸く開通。有線の設定もままならず、もう一台パソコンがあったからいいようなもんで、ネットオークションの取引はなんとかそれで済ませる。こんなときに限って落札が続々と続き、ほくほくしてたのもつかの間、なにがなにやらわかりませんというほど出費がかさみ、すべてちゃらになってしまった。こんな生活もう御免という感じ。
明日から再起をきして書斎生活に戻ろう。 とりあえず何から読もうか。エッカーマンの『ゲーテとの対話』全3冊か、子規を読み直すのもいいかも。 ともかくなんでもいいから金のかからない正常生活を取り戻そう。
ここ2,3日は過酷な日々だった。子細には語れないが翻弄され、試され、他人の自己中心性に自分の入る隙間を与えられず、最早神経の許容範囲の限界が来る直前で、関係がプツッと切れた。
今グレン・グールドのバッハ、パルティータ2枚組を聴いている。更に聴きながら「グレン・グールド著作集」について「千夜千冊」を紐解いていた。何もかも記憶から消え去ってしまえ、と思いつつ聴き続ける。この奇才の演奏を前から聴いてみたかった。低い椅子に座った姿勢で、声をハモらせながら、ピアノと一体になってしまう男。「技術が内容を左右する」と語ったのはグールドが松岡正剛か?31歳を境に人前ではいっさい演奏しなくなった。演奏会における欺瞞性に嫌気を感じたらしい。彼の演奏からは「孤立」という尊大性が「どうだ、わかったか」といわんばかりに感じとれる。 「孤立性」のもつ「安寧」を今感じている。頭を掻きむしられ神経がずたずたにされて、逃げ込めるののは「孤立」しかない。いつ元のぼくに戻れるのか、時間のたつのを頼りにじっとしているしかない。 書きたいことはやまほどあるが、残せるのはここまで。
ミッションが終了した。今8冊の背表紙を眺め、正月来長短時間をかけ読み進めてきたこれらの著書を経てきた感慨は松岡正剛が「千夜千冊」の500冊目を記念して行った「一人一冊」という講演でとりあえげた著書たちである。今や1465夜に至り池澤夏樹の『春を恨んだりしない』を取り上げているのだが、途中胃ガン摘出手術を経て尚筆力に衰えなく、連打し続けている彼のパワーに敬服するばかりである。人生は時間の長短ではない、いわずもがな時間に籠められた内容の問題である。
今回読んだ著書らは、かけた時間分の内容を持っていたといっていいいだろうと思っている。つまり無駄がない。 必要な時間だけ必要な内容を含んでいたといえる。これは逆説だろうか。 しかし最初に読んだポール・ヴァレリの『テスト氏』のようなものは、彼がこれを書くに至った下敷きにユイスマンスの『さかしま』を読んでおかなければならないとか、リン・ホワイトの『機械と神』はこれを批判したO.シュペングラーの『西洋の没落』を読む必要があるとか、オルテガの『大衆の反逆』を三島由紀夫が貴族主義と誤解していたというあたりユルスナールの『三島由紀夫あるいは空虚なヴィジョン』等で補わねばならないとか、ミッションは一応終わったとはいえ、補って読まなければならない著書は多々あるわけである。 4月の下旬までかかったこのミッションだが、選者である松岡正剛の「千里眼」に追うところ大なわけで、自らこういう目配せが可能か?というのは些か心許ない。
血圧は相変わらずである。朝はかると上199下140、今少し落ち着いて160と99というようなあんばい。今日はいつもの電話は控え、洋画と邦画を2本ずつ中途までみているところへ、長男夫婦がやってきて、タイヤ交換に来たといって暫く話していた。新婚生活は如何ですか?などとあらためて聞くほどのことでもなかったが、嫁さんの方は勤めていたところが潰れてハローワークに通っているということで、まあ、勤続年数と当時貰っていた給料に応じて貰うわけで、自分の時はこうだったみたいな話をしていた。それにしても、ペットが欲しいなという話で、例のヤンキー猫のことやら、枝雀の落語からイタチみたいなもんはどうだ?てなことで「いたりきたり」の話をしてやったりで、しょうもない話でお茶を濁しているなかで、先日「自殺した落語家」というのを検索してみると、「自決、自害した著名人一覧」というのを眺めていて、ははーん、とかふーんとか思っているなかで、ロッキード疑獄の時に証人喚問を病欠した児玉 誉士夫の自宅に特効服を着てセスナ機で突っ込んだポルノ俳優28歳というのに大笑いした。最後の特攻隊とか騒がれたらしいのだが、突っ込んだのが零戦ならわかるが、セスナ機というのは情けないという気がしたもんだ。まあ、時代が時代だけに致し方ないのだが、なにやら三島由紀夫に心酔していたとか。
そんなしょうもないことに馬鹿笑いしりとか落ち込んだりとかしてる日々ってなんなの?・・・というところである。 それよりもっと気の狂いそうな話があるのだが、かみさんの検閲がはいるので、これまで。
血圧の方はあまり芳しくない。200を超える危険状態にはなってないものの、上と下の間隔が狭すぎるような状態だったり、一時的に正常範囲だと思っていても数時間後には160を超える数値になったりで、状態が安定しない。極端な具合の悪さはないものの、正常ではない気分をずっと抱えているのである。3週間分の薬を貰っているが、その間に快癒する見通しは薄い気がしている。
今はそのことに克てて加えて、入院中もあったことなのだが軽躁的行動が目立っていることである。所謂双極性障害(躁鬱病)のうち躁的傾向が克ちだして来ているらしい。所謂ハイテンションで目鱈やたら長電話をするのが一例なのだが、抑えがきかないことを自覚している。原因のひとつに考えられるのは、抗うつ剤のOD、オーバードーズが思い当たる。血圧が高いということで気分が優れないのをカバーしようとして、適切な薬の飲み方をしていないことが思い当たる。 長電話の相手は限られた3人なのだが、まあ似たような症状を持った相手である。彼らは大学教授であったり、有閑マダムであったりでいたって正常な社会生活を送っていつつ、ボクの話し相手としては数奇な存在でボクの執筆活動や読書などを続けていく上でインタレストを感じ続けさせてくれる相手であり、様々な話題に及んで遣り取りしている。彼らの返してくれる言葉にトリガーを感じ、活力を得ている。 しかし、この長電話という行為は高い電話料というリスクを負うわけである。かみさんに警告をうけるのは目に見えている。 昨日あたりの話題は、今読んでいるイアン・ビュルマの『日本のサブカルチャー』から、日本人の男性にはつき合う女性に対し、所謂「母性」を求める傾向があるという話題だった。それに関連してアン・リンドバーグの『海からの贈物』のなかでの女性とは「与え続ける」ことを宿命としていることも話題としていた。大方話し相手はそのことに同意をしていた。ビュルマの素材とするものは、いたって卑俗な事柄からの考察であって、こんなの読んでていいのか?という忸怩たる思いを持ちつつ、しかしながら旨く要約された日本人論であるとは思っている。三島由紀夫や三輪明弘や高倉建や宝塚やソープ嬢や芸者やポルノグラフィーなどを羅列してくる。それらの素材は「いかにも」という感覚で「ゲイシャ、フジヤマ・・・」的な或いは「菊と刀」風の外国人からみた日本人論にやや近似していて、新奇性に薄いと感じつつも「まあ、そんなところだろうな」と頷いてしまう類の著書だ。 というようなことで、長電話という行為に現れてきた僕の軽躁状態に警戒感を抱いている今日この頃である。
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