この著は、松岡正剛の「千夜千冊」と同様の方法で読むことが出来る。
どこから読んでも構わない自由さがある。まさに「銀河系」を彷徨う事が出来るし、星と星を繋ぐ星座の線を目視する自由が与えられている。
何時初めても良い。どこで終わっても構わないのである。読了したからといって、それで終いではない。
辞書のように、必要に応じて「言葉」を探し、図書館のように並べられている背表紙を眺め手にとって看ることが出来るように。
一見して彼の主張には「無理」があるようだ。しかし騙されたと思って読むだけの価値はある。
彼の云う「視覚化」ではないが、「点」と「線」と「面」と「立体」があるようだ。
「点と点」の繋がりから「線」が生まれ、点と線が描かれた「面」には「文字」や「絵」が生まれる。
視線の先には「立体化」した「もの」が想像できる。
また「かたち」が生まれ、「いのち」に繋がる。
「いのちとかたち」、ここに新たなトリガーが潜む。
この「トリガー」こそマクルーハンの意図したものに違いない。
彼は僕にとって「知のテロリスト」なのかも知れない。
「文体」など必要ない。「知」と「編集」と「思索」があれば済む。言ってみれば自然とそこに「文体」が現れるに違いない。
「トリガー」があればいい。
「文章」は五感の全てを使って湧き出てくるものだ。
最早、意識と無意識の境界はない。
湧き出るものをぐっと堪えて、思索し佇む時があって良い。抑えきれない性欲のように止まらず噴き出してしまうのであれば、それも結構。
多くの著者がどっちに加担したのか。
またそこには「日本的なるもの」と「西洋的なもの」のそれには違いが当然あろう。
「模倣」という言葉が浮かぶ。
模倣は「文化」の「方法」である。そこから「編集」が始まる。
「民族」や「国家」は、模倣を繰り返し、何処かの地点で「転換」しながら変遷して「歴史」を造ってきた。
「転換」のトリガーとなったのは、「他との接触」である。「土台」の違ったもの同士の「吸収と受容」或いは「拒絶と戦い」であったろう。
「他」(ほか)と「外」(ほか)は、「同一化」と依然とした「不平等」或いは「差別化」の轍を踏む。
「好き」は「数寄」となり「好み」や「ファッション」ともなる。
ファッションが「ファッショ化」する現代の様相は、コンフォミティー(社会的要請への従順)と機軸を一にする現象と言えるだろう。同じブランドを身につけることでアイデンティティーを保持し、同化しなければ「いじめ」られる虞を抱き、均一化することで安心感をもつ現象。これは「数寄」とは事を境にしている。
「遁世の数寄」を愛する少数者は異界の存在である。
「共同体」或いは「大衆」には「原理」「原則」が生まれる。「宗教」「思想」「アイデンティティー」がそれらの「土台」となる時があり、その変遷があり「型」を創る。
「型」は「鋳型」となり「好み」の集合体をつくる。
ホメロスの「型」、ルネサンスの「型」、イデオロギーの「型」。
そればかりでなく、先頭に立つ者、扇動者、プロパガンダ等が蠢き、新しいものを産み、古きものを捨て、或いはその逆を繰り返して「共同体」や「大衆」を巻き込んでいく。
「情報」がそれらに常に働き続けるのである。
情報の「点」と「線」と「面」が「形」をつくる。
マクルーハンのことを「知のテロリスト」と呼んだが、テロリストには「情報」と「武器」と「堅い意思」が必要である。
彼にとって武器とは「知」のことである。
そして遣り遂げなければならない「何か」が彼をして著述へと向かわせる。
彼が影響を受けた「知」こそこの「銀河系」に鏤められているのだ。
批判もし、論駁もし、受容もし、そして「止揚」(アウフヘーベン)もしたであろう。そして一個のコスモスを創り上げたに違いない。
以上は、この「銀河系」のほんの一部を囓っただけの思いつきに過ぎない。
ある意味尊大で傲慢な「勘違い」と「断片」に満ちていることは否めないとは思うが、これから「彼との旅」をする愉しみを予感するばかりである。