二・二六事件関連の書籍を読んでいて、ひとつの史実についてどこに重きを置き、どの程度重要視するかは人様々である。と感じたことのひとつに、二・二六事件における所謂「大臣告示」があったのだが、それが伝令或いは下達された複雑な経緯を一応記憶に留めていたのだが、あらためて正確なところを確認しようとしてあちこち書籍のページを捲っているうちに、あのこともこのことも捨て置けない事柄が目に留まって混乱の極みに入り込んでしまった。それらが気になりながらも、目当ての「大臣告示」に関する記述を探そうとするが、気が焦ってなかなかみつからない。記憶に留めておくほど注目した筈の文面が何故みつからないのかと半ば捨て鉢になっていたのだが、中田整一著『盗聴二・二六事件』の最終章に近い第十章「封印された真実」という章にそれはあった。この章は事件の後始末ともいうべき東京陸軍軍法会議の審理の内容についてである。寺内寿一陸軍大臣を長官とし、一審即決、非公開、弁護人なしという被告にとって極めて厳しい条件下で実施された裁判である。この時の首席検察官をつとめた陸軍法務中将匂坂春平の秘蔵していた膨大かつ貴重な資料は中田氏がプロデュースした「二十枚の録音盤」を扱った「戒厳司令『交信ヲ傍受セヨ』の放送後、匂坂春平氏の子息哲郎氏から受けた電話によって知らされた。戦後間もない時期、ビルマから復員したばかりの哲郎氏に、母親が 「離れの押し入れにあるものは大切なものですから、絶対に手をふれないように」 といわれた押し入れのなかには二個の軍用柳行李が収められていた。哲郎氏が父の葬儀の当日、はじめてあけたなかには二・二六事件の裁判資料がぎっしり詰まっていた。 匂坂家の柳行李の中身は、昭和20年二月二十五日、B29の空襲による猛火のなか、第一師団司令部構内の陸軍高等軍法会議の建物にあったものを辛うじて持ち出したものだった。 匂坂資料には、捜査から公訴にいたる記録が含まれ、軍法会議検察部が作成した捜査報告書の被告人には、荒木貞夫、真崎甚三郎、阿部信行、川島義之、香椎浩平、古荘幹郎、山下奉文、鈴木貞一らが名を連ねている。彼らは反乱幇助の罪で告訴されていた。 陸軍上層部は、北一輝や西田税ら、外部の民間人が二・二六事件の首謀者(首魁)であるという図式に固執していたのに反し、匂坂検察官の目は、むしろ陸軍大将など陸軍上層部に鋭く注がれていたことが、匂坂資料中の「電話傍受綴」に示されている。 匂坂の眼光が事件の深い闇のなかに注がれていたわけは、事件の渦中に発せられた一片の文書にある。 二月二十六日午後、宮中に陸軍の軍事参議官たちがあつまって作成した「陸軍大臣告示」である。皇軍相撃を避け、青年将校らを説得により穏便に撤退させるための、説得工作の文である。表題はもともと「陸軍大臣より」となっていた。いくつかのルートで外部に伝達されるうちに、「陸軍大臣告示」と題するものがあらわれ、両者の間には内容の違いも生じた。 軍事参議官とは、重要軍務について天皇の諮詢に応じる陸軍の長老たちのことで、荒木貞夫、真崎甚三郎、西義一、植田謙吉、阿部信行、林銑十郎、更に朝香宮、東久邇宮 が名を連ねた。 二十六日の非公式軍事参議官会議には、これら全軍事参議官に加え、本庄繁侍従武官長、川島義之陸軍大臣、杉山元参謀次長、香椎浩平東京警備司令官、山下奉文陸軍省軍事調査部長、村上啓作軍事課長らが陪席した。 余談だが、これらの人名、役職の他蹶起部隊の将校、兵卒のなかで主だった者の名前を記憶しておかないと、経緯をおっていくうえで支障をきたすことになる。何章かを跨いで再び同名が出てきたときに、「あれ、何した人だっけ」となってページを捲り返して探さなければならなくなる労力も馬鹿にならない。 会議の口火を切ったのは香椎中将であり、皇軍相撃を避けるため討伐の不可なることを進言した。続いて荒木が説得案作成の話を持ち出し、青年将校らの説得のため、山下少将が起案し軍事参議官たちの意見を入れ、文案をまとめたとされるのが「陸軍大臣より」である。 この説得文が二十六日に通達されたことにより、蹶起部隊や第一師団、近衛師団が蒙った心理的影響は計り知れないほど大きいものがあった。 陸軍大臣より 一 諸子蹶起の趣旨は天聴に達しあり 二 諸子の真意は国体の真姿顕現の至情なりと認む 三 国体の真姿顕現に就ては我等も亦恐惶に堪えざるものあり 四 参議官一同は国体顕現の上に一層匪窮の誠を致すべく、其以上は一に大御心を体すべきものなり (以上は宮中に於て軍事参議官一同相会し陸軍長老の意見として確立したるものにして、閣僚も亦一致協力益々国体の真姿顕現に努力すべく申し合わせました。「東京陸軍軍法会議検察官による山下奉文第一回聴取書」) 「お前たちの蹶起の趣旨は天皇に伝えられつつある。お前たちが重臣、閣僚を殺害したその真意は、天皇中心の国体を明らかにしようとした真心から出たものと認める」としたのである。 この文面作成を協議した会議をリードしたのは、皇道派の荒木貞夫や真崎甚三郎ら、青年将校に担がれた将官たちだった。 それはともかく伝えらえた青年将校、蹶起部隊は、自分らが「義軍」として扱われていると欣喜雀躍したのだが、これが事態を混乱させ、鎮定に長い時間を要する最大の要因となったのである。 磯部浅一は、後に憲兵隊の聴取に答え、山下が陸相官邸で青年将校らに繰り返し読み聞かせた「陸軍大臣より」の内容について、ある重要な問題を示唆している。軍法会議はこの点に強い関心を示した。 「其の時の文句は覚えませんが諸子の真意とあったもので後の方に参議官閣僚一致し云々とあったものでありました」「それは後になって隊の将校が行動とあるといって一寸違ったものを持ってきたのを覚えておりますから山下少将の分は行動とはなかったものと思います」(松本清張・藤井康栄編『二・二六事件=研究資料Ⅱ』 磯部の言うところによれば、「陸軍大臣より」と名付けられた文書には、第二項に「真意」とあるものと、「行動」とあるもの、二種類が存在することになる。 この点について澤地久枝女史の著書や放送された「二・二六事件 消された真実」のなかでも強調されていたが、当初自分にはいかほどの違いがあるのかピンときていなかった。軍部内でも書き違い或いは聞き違い程度の扱いしかされていない文面もあった。 中田氏は、両者を比較すると「行動」の方が反乱側への肩入れは一層強まる。まさに二十六日早朝からの反乱「行動」を容認することになる、という見解である。 「陸軍大臣より」が伝えられた同日午後三時頃、香椎司令官は「軍隊に対する告示」を下達。 「本朝来出動しある諸部隊は戦時警備部隊の一部として、新に出動する部隊と共に師管内の警備に任ぜしめらるるものにして、軍隊相互間に於て絶対に相撃をなすべからず」 これは首相官邸などに侵入し、重臣らを殺傷した反乱軍に、戦時警備隊としての地位を与え、彼らが占拠している地域の警備を命じるというものである。原隊から食糧も支給されたために、二十六日からの行動が、陸軍によって容認されたかのようなムードは一層強まった。 続いて三時二十分、宮中の香椎司令官からの命令に基づき、東京警備司令部から第一師団、近衛師団に軍事参議官会議作成の文書が伝達され、印刷配布された。その際の名称は「陸軍大臣告示」とあり、「命令」の意図を前面に出したものとなっている。 陸軍大臣告示 一 蹶起の趣旨に就ては 天聴に達せられあり 二 諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む 三 国体の真姿顕現の現況に就ては恐惶に堪えず 四 各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合わせたり 五 之以外は一に大御心に俟つ 先の「陸軍大臣より」との違いは随所にあるが、最も注目されるのは第二項で「諸子の行動」を認めると明言していることであろう。 この点につき当時警視庁特高部長であった安倍源基の証言には 「実は宮中にいた香椎司令官から、電話で自分に告示の伝達があった。自分は第二項について何回も聞きただしたが<諸子の行動>といった。香椎さんは露骨な皇道派の人で、自分とは意見が違っていた。二・二六事件についても香椎さんは、青年将校たちの行動は蛤御門の変での明治維新の志士たちと同様だといっていた」 また、軍事参議官会議に陪席した杉山元参謀次長は「『行動』の字句は終始一回も口に上らず」と手記に述べている。 二人の証言を総合すると、香椎は軍事参議官会議の席上で「真意」であった第二項の文言を、かなり確信的に「行動」と変えて伝達したことになる。 山下少将にいたっては、筆記した内容と配布された告示との多少の相違は、説得事項が完全に決定していない段階で香椎が戒厳参謀長に電話伝達したためで、電話伝達後香椎が幾分変更したことと、電話の間違いがあったのでは、と述べており、香椎をかばう姿勢を示している。 何にせよ混乱を招いたこの「告示」に端を発し、陸軍首脳の態度は天皇の「奉勅命令」を挟み、事態収拾の過程で蹶起部隊の呼称は「行動部隊」「蹶起部隊」「騒擾部隊」そして「反乱軍」とめまぐるしく遷移していくのである。
by jamal2
| 2017-06-23 05:06
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