少し冷静になるため原作の「冷血」を引っ張り出して読み始めた。『ティファニーで朝食を』は有名すぎるから読まなかった。僕は有名すぎる本とか曲に対する拒否感があって世界でも日本でも文学全集の類はまず読まない。が、『遠い声 遠い部屋』は松岡正剛のナビで読んでみた。それが気に入ったのかどうかは忘れたが、続けてこの『冷血』を読んでみようとしたようだ。「ようだ」とは読んでなかったかも知れないほど読んだ形跡を残していないからだ。頁が全て綺麗なままで線も書き込みもない。大抵何かしらの痕跡を読んだ本なら残す筈である。探偵のようにもう一回痕跡を探したところ、新潮文庫だから栞紐がついている筈だからと探すと100pあたりにそれが挟まっているのを見つけた。ああ、そこまでは読んだんだ。でも全部じゃなかったのか。内容が怖かったのか、つまらなかったのか、それ以外の理由なのか。ともかく何らかの理由で途中で放り出したことだけはわかった。知ってる人も多いと思うが、これは実際にあった猟奇殺人事件を取材して書いたものだ(いや、らしいと書くべきだ)。ある農家の一家4人が惨殺され二人の犯人がつかまり死罪にいたるまでを描いた(ものらしい)。 この作品は言ったように未読のままだったので、勘違いをして別の事件のことを人に告げたことがあった。あの「ローズマリーの赤ちゃん」の監督ポランスキーが妻シャロン・テイトと結婚し妊娠8ヶ月の子がいたが、チャールズ・マンソン率いるカルト集団に腹を割かれて惨殺された有名な「シャロン・テート事件」のことだと思いこんでいた。当初ポランスキーが妻を殺したのではとスキャンダルになったが、単なる人違いの逆恨みによるものであることがわかった。何故この事件に興味を持ったのかもう忘れてしまったが、「ローズマリーの赤ちゃん」は1968年の作品で僕が13歳のときだから日本で上映されたのはその先だとして、中学2年頃どこかの映画館で看板をみたのだけは憶えている。所謂ホラー映画だということだけは知らされていた。 ホラーじゃないが刃物系の映画が苦手で、ヤクザ映画の指つめとか切腹や介錯場面が苦手で、それは半藤一利原作の「日本のいちばん長い日」のリメークじゃない元々の方を小学生の時に父に連れられて観たときのトラウマがあったからだ。何度か書いたから省略するがとにかく「恐い」のは駄目。「ローズマリー・・・」も気にはなったが当然みにいかなかった。それよか「女体の神秘」の方が観たかった。(エロい中学生だったから)記憶違いかも知れないが、「卒業」ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスのあの作品。サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」の主題歌の「卒業」と「女体の神秘」が何故か二本立てになっていたような気がしている。寂れた映画館だったからどっちかで客を呼べると思ったのかも知れない。あのころ何でこの組み合わせ?という2本だて、3本だてが多かった。2年ほど前に初めてサイモンとガーファンクルのコンサートを札幌ドームで観たことは以前書いた。ドームの前列の方で、顔がはっきりみえるかどうかという微妙な席だったが、衰えを見せない歌唱に聴き入った。でもガーファンクルが喉を痛めたとかいう噂は聞いたような気がする。だからか「明日にかける橋」は歌わなかった?のか。(聴いてる方がボケてるからなにもかも怪しい) 芋蔓式文章だが、この手口は向田邦子から仕入れた(なんてのは嘘だが)。彼女のエッセイを読んでるとそう感じるのは僕だけか?「・・・といえば」で繋いでいく手法。芋蔓じゃないけどモノ書いていると煙草がチェーンになるのは困りモンだ。口も喉もいがらぽくなってるのに止まらない。それを漢方の風邪クスリで誤魔化してる。馬鹿じゃねぇのと自分でも思う。と書いて漢方のクスリの話題に繋げるのは・・・ズルい。別に字数稼いでいるわけではないのでどこでやめてもいいのだが、自分で適当と思えるあたりまで書かないと格好つかない気でいる。読んでる方がへこたれる?だから僕の本のレビューは毛嫌いされる? でもね、(とまたここで芋蔓)松岡正剛のブログから始まった「千夜千冊」の初期の頃はさほど長くはなかった。それが徐々に長くなりホントに実際「へこたれる」ことが屡々だったりする。横のカーソルをみて、こりゃながくなるぞと覚悟する。でも自慢じゃないが途中でやめたことはない。今や2千冊分になろうとしているこのサイト。本好きなら絶好のナビである。正剛の文章は「難しい」と言う意見もあるが、そういう次元で読んでちゃ駄目だ・・・と思う。確かに誰かとの対談の席でさえ、正剛ボキャブラリーが氾濫することがある。でもボキャブラリーの次元で難しいと言っていたのでは到底松岡正剛を理解することは出来ないと思っている。何十万冊を読破してそのなかから一人一冊という方針で執筆して2千冊に及ぼうとしていることにまず驚くし、ただのレビューに終わらせず著者の来歴はもとより、影響を受けた人物や関連する人や本などをリンクさせ、正剛の他著やレクチャーでも読んだり聞いたりする「持論」も披瀝しながら、その本の「本質」に迫っていく切り口の鋭さに惚れるところまでいかないと本物じゃない・・・と偉そうにいうがホントにそうだと思う。彼の創る「本棚」のことを知っている方もあろうかと思うが、普通の本屋に並ぶ本の並び方とは全然違う。(言っておくけど、「全然」の後には否定語が入るんですよ、前回そこまでは許すとは言ったけど)要するにリンクしあうものが隣り合わせ、或いは縦横に並んでいる。哲学本の隣に漫画があっても可笑しくない。それが何らかのリンクするものがあればその方が判りやすいからだ。一度まねしてみようとおもったけれど、大変な作業であることがわかって断念した。僕は漫画は勘弁願いたい方だが、正剛が選ぶ漫画には選ぶそれなりの訳がある。少女漫画が好きだとどこかで読んだが、そこまでチェックしてんのかよと呆れた。 この正剛の本棚を丸善丸の内本店の4階に作っちゃったのが、「松丸本舗」。『松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。』というのもある。3年契約ということで始めたらしいが、関係者の証言はないので、真相という訳ではないが、3年間という委託期間の中で、丸善側が期待するほどの売上げ(集客効果を含む)を上げられなかったということのようだ。これは芥川賞や直木賞のレベルが下がったのは(と、僕が思っているだけかも知れないが)審査する委員の質が落ちたことによる(これも僕の勝手な推量だが)のと読者層の質の問題に似た現象ではないか。紙の本に対するニード自体が落ちている現状もありそうだ。「破格」者は兎角鬼の子にみられる。しかし破格しないと物事進化しないのは歴史が示すところである。(これ、前に書いたんだがどこに書いたか忘れた。ああ、 「富岡鉄斎にふれて」だ。) 10万円した「千夜千冊」全7巻。丁度50歳のとき出たばかりで、退職金をはたいて手に入れた。一冊の分量が広辞苑くらいある。7巻目にいたっては広辞苑を超えた分量だったので紙の厚さを減じて何とか版元にお願いして作って貰ったというエピソードもある。彼の著書のなかには、本の真ん中に「穴」をあけたものもあったそうで、どこの会社にも断られ自分でドリルで一冊ずつ穴をあけようかと考えたこともあったとか。 「生涯一編集者」と自負しているそうだが、それがわかるようでわからないところもある。だから人に松岡正剛ってどんな人と聞かれても説明がこんなに難しい人はないと思うぐらい普通の肩書きでは説明不可能な人だと思っている。メディアにあまり出たがらない人だから、知らない人の方が多いと推察するが、どんなに本好きでも正剛を知っているというのは一握り以下。そこが現代メディアの落とし穴の象徴のような気がする。この人にナビして貰わない本好きを自称する人は「ケツの穴のない大食らい」と言いたくなる。(この比喩あんまりできが良くない)出口がないのに食うことだけは人一倍だったとしたら、消化不良どころの騒ぎはない。存在自体が危うくなる・・・。本の読み方だってそうだ。未だにいまいち理解出来てないのが、本というのはダブル頁だからいい、と彼は言う。見開いた時に2頁ずつになる。頁を跨いで広がる空間をビジュアルに活用する・・・という意味なのか、確かに正剛の独自のマーキング法というのがあって、頁を跨いでこことそこは関連があるよという意味で丸で囲んだ一方と他方が線で頁を跨いで繋がっていたりする。「関連」ばかりじゃないかも知れない。ダブル頁の話じゃないが、正剛流マーキング法には多種あって「読む」という行為を突き詰めた「方法」なのだろう。 「本」を「読む」とはなんなのか、そこのところを徹底して追及した人だとも言える。 古来人は声に出して書物を読んでいた。平安時代の絵巻に襖越しに何かを声に出して読んでいる女官とその声を聞いている男達の図柄がある。いつからそれが途絶えてしまったかは、たとえばマーシャル・マクルーハンの『グーテンベルグの銀河系』あり、W.J・オングの『声の文化と文字の文化』その他諸々あるが、読み比べると定説とはいかず諸説ありという言うしかないと思うが、比べ方がヘンかもしれないが、日本で言えば『古事記』がそうである。天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したもの・・・とされている。「誦習」とあるごとく声に出して唱えていたものを書き写したものである。歴代天皇の列記や宮廷内の物語、天皇や国家のおこりの列伝を記して天皇及び宮中の権威をしらしめる為のものであると言えよう。これには賀茂真淵等が「偽書説」をとなえたが、『古事記伝』を書いた本居宣長が反論するという論戦もあったようだ。小林秀雄の『本居宣長』上下にそのことが書かれている(じゃなかったか?) それは関係ないことなので省くが、洋の東西を問わず本は声を出して読まれた。付け足して言うと、『薔薇の名前』というウンベルト・エーコが書いた著のなかに中世カソリックの教会の塔のなかに図書室のようなものがあって、そこで僧がパピルスだかに記された書物を声に出して読んでいたというような記述があったように思う。映画化もされていてDVDを買ったがまだ観ていない。007のシリーズの初代ジェームズ・ボンド役のショーン・コネリー(言うことが古すぎたか)が主役だということだけ知っていた。著書の方は上下の上しか読んでない気がする。 その声に出して「読む」時代から黙読に変わったのは、マクルーハンの説によればグーテンベルグの活版印刷が普及した頃からだということだ。千夜千冊によれば 「マクルーハンは、印刷文化が人間の経験を解体し、知性と感性を分断したと見た。 触知的世界像と聴覚的世界像と文字的世界像は分断されてしまったのである。マクルーハンは、それによって人間はつねに慢性的な分裂病的心理状態になっているとも考えた。」とある。 ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』の右脳優先の人類と左脳と右脳が脳梁で繋がって伝達するようになると、それぞれの役割が統合されるようになり、思考、論理を司る左脳と五感と呼ばれる感覚機能がうまく活かされるようになった。ところが失った点もあったというのがジェインズの説で視覚、聴覚等優位の右脳の働きで得られた古代人の能力が失われたとする。 自閉症の場合よく「視覚優位」という診断がされることが多いが、言葉の獲得には幼児が何でも口に入れてモノを確かめるようにそもそも人間には触知的に対象世界の輪郭をつかむ原初的な能力がある。幼児が関心をもったものなら何でも手につかみ、何でも口に入れようとするのはそのせいである。それに視覚が絡み更に言葉が絡んできて言語獲得に近づいていく。幼児の周りには大人の言葉の渦が蔓延している。そういう環境のなかで「モノ」や「コト」が大人の発する言葉とドッキングすることで所謂「コトバ」を自分のものにしていく。口や手でモノの実体を感じ、どう使うものかがわかってきて、それが「○○」というコトバだと繋がってくるのだが、そこが自閉症の場合うまくいってない。我々が言うところのモノ本来の使い方じゃない仕方に「固執」しがちで、たとえば自動車のオモチャの車輪のところばかりを覗き込んでいつまでも指で車輪をクルクル回していて、車体をつかんで走らせて遊ぶことがないとか、僕が現役のとき視覚優位の典型だと思った経験で、絵本を読み聞かせしている最中に、読んでいるこっちより先に声がすると思ったらその子が絵本の挿絵より「字」を読みとってしまうことい気づいた。こんなちっちゃい子が絵本の絵より字の方を優位に感じ取っているのは、どう捉えたらよいのだろうと思った。教科書的には「視覚優位」の自閉症特有の症例と書かれているが、これは障害なのか特殊能力なのか捉え方に両論あるようだ。両論あるというのは山下清の切り絵の才能をどうみるかにも繋がる。知的障害を持った山下清が何故あんな素晴らしい作品を創れたのか。更に『自閉症だったわたしへ』のドナ・ウィリアムズの例もしかり。もう記憶に残ってないので他のサイトをリンク させて貰うが、ドキュメントにもなってTVで観たおぼえがある。こんなにしっかりした文章の書ける「自閉症」っているの?というのが最初の印象だった。「自閉症」という括り方はもう古いと言えよう。僕が最初に職場で出逢った「脳性麻痺」という括りもそうである。症例に応じて細分化されてきて対応が適切になってきている。広汎性発達障害のうちのひとつで基本的特徴は、
現役時代ノースカロライナにおけるTEACCHプログラムに注目した時期があって、北海道でもこれに取り組んでいる施設があった。自閉症には治療法はないがソーシャルスキル等を支援することは出来るということで、ノースカロライナでは町ぐるみでこれに取り組み成果をあげていた。町のどこに出掛けてもとまどったりパニックになっったりすることがないように、全ての施設、商店等が彼らを理解し支援している。カードに書いた絵をみせて何が欲しいのか店員や職員がわかるようにするのもそのひとつ。カードの活用はまさに視覚優位の活用で、一日中好きなモノのカードを捲っている子もいる。一日のスケジュールもカード化したり目で見てわかりやすいように順に絵図にしている場合もある。参考になるかどうかわからないが、ブルース・ウィリス主演の「マーキュリー・ライジング」のなかの子役サイモンの行動にも特徴が出ているのではなかったか。そろそろ「へこたれ」てきたからやめにするが、「本」を「読む」ことに関してはあらためて分析し直そうと思う。(血圧のクスリ飲もうっと!)
by jamal2
| 2016-09-29 04:42
| 映画
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