このドキュメントの半分くらいは寺崎英成とグエン夫婦の出会いとマリ子が生まれてからのことで占められていて、前半はグエンの立場になって柳田が記している。 黄色いバラ 外交官寺崎とグエンの出会いがあった後、日本に帰った寺崎から手紙とともに三本の黄色いバラが送られた。 その後寺崎からのプロポーズを受けたがグエンは躊躇した。自分の名前が「グエン・テラサキ」と呼ばれることに戸惑いを持ったからである。しかし結局「イエス」の回答をする。 しかし寺崎側には外交機密を扱う外交官としての事情があった。 外交官の国際結婚は、日本の外務省では好ましくないものとみられていた。 一方、情勢としては、1931年九月十八日、満州の奉天郊外にある柳条溝で起きた南満州鉄道の線路爆破事件をきっかけに、日本の関東軍が軍事行動を開始した。この事件は、関東軍が満州での権益をめぐって行動を起こす口実を作るために、謀略的に仕掛けたものであった。関東軍は、日本政府の事変不拡大方針にもかかわらず、戦線を拡大していった。 また、アメリカ国内では、既に二十世紀初めから、カリフォルニア州で日本人移民排斥運動が起こっていたが、移民問題をめぐる排日論は、全国的な規模では必ずしも世論の支持を受けていなかった。しかし、満州事変はアメリカ人の対日感情を全般的に悪くする大きな屈折点となった。 ワシントンの日本大使館は、満州事変に対するアメリカ政府の対応やアメリカ国内の世論の動向を、外務省に報告する作業に追われるなど、急に忙しくなった。 そんな中、寺崎はグエンとの結婚のことを田淵に相談した。 田淵は寺崎がアメリカ人の妻を持つことが、寺崎の将来に障害をもたらすに違いないと忠告した。 寺崎の父寺崎三郎は福岡藩士の出身で、横浜で貿易商を営んでいた。同郷の頭山満とは、家族が行き来するほど親しくしていた。 父の躾は厳しかった。 寺崎は兄に対し、結婚について外務省から許可が下りなければ、外交官をやめるつもりだと兄の太郎に話していた。 その後、田渕は外務省に寺崎の結婚教課審精を出すことを約束した。 しかしグエンの母はグエンと寺崎の結婚に不安を抱いていたが結局二人の結婚を認めることとなった。 その後外務省から結婚の許可がおりた。 1931年11月14日寺崎とグエンはグエンの叔母の家で結婚式を挙げた。 時は満州事変をめぐる情勢に揺れていた。 二人は12月4日ワシントンを発ち24日に横浜に着いた。 国際連盟理事会の決議によって、満州事変の実情を調査する国際的な調査団はが、日本と中国、満州に派遣されることになったため、外務省内に急遽その調査団を受け入れる準備室がつくられた。調査団は、英国のリットン卿を団長に、米仏独伊から各一名ずつ計五人で組織され、一般医はリットン調査団と呼ばれた。 寺崎はそのリットン調査団受け入れの準備室に配属された。 帰国してから数日は帝国ホテルに滞在していたが、やがて椎名町にある兄太郎の妻須賀子の実家である大塚家に案内された。 昭和7年の正月にグエンは妊娠していることに気づいた。 暗号 日本との交信に使われた暗号のひとつにこの「マリコ」が使われた。「マリコ」という暗号は、日米の交渉方針や提案に対するアメリカ側の態度についての情報を連絡するときに、「米側態度」という用語に符合する暗号として用いられたものだった。 「マリコは病気だ」と伝えればそれは、 「米側態度は悪化している」という意味だった。 大使の役割には、一般に、本国政府の外交政策やメッセージを相手側に伝える「伝達者」と、外交交渉の現場で政策的・技術的に問題解決を図る「交渉者」の二つの側面があるといわれる。交通通信機関が発達した今日においては、「伝達者」の役割が濃厚となっているが、戦前においては一国を代表する十九世紀的「交渉者」の性格が、まだ強く残っていた。 時の外相松岡洋右は、独伊との枢軸路線の熱烈な推進者であった。対米韓に関して松岡は、アメリカ人と付き合うには、弱みを見せたらだめだ、毅然たる態度こそ、対等に話し合えるための条件だとしている。 松岡は、しばしば対米強硬論の演説を行ったり、野村大使に対し、強硬意志をアメリカ側に伝えるよう訓電を打ったりした。松岡の訓電のうちアメリカ側の感情を刺激するおそれのあるものについては、伝達を控えたり、一部を削除して伝えたりし、更にアメリカ側からのステートメントについても、しばしば手元に控えておいたたため、松岡を激怒させた。 日本政府が絶対に譲れないとした原則は、アメリカは対中国援助を中止し、蒋介石に対日和平交渉のテーブルにつくよう働きかけるべきである。アメリカは対独伊戦に参戦すべきではない。アメリカは、日本が中国と和平を結んだら、その交換条件として、正常な対日通商関係を復活すべきである、などと述べている。 日本はすでに蒋介石への援助ルートの封鎖を口実に、北部仏領インドシナに進駐していたが、ついに南部仏領インドシナにまで群を進めた。南部インドシナ進駐は、もはや蒋ルート封鎖という名目では説明のつかずに、日本の南進作をむき出しにした行動だった。日本が蘭領インドネシア諸島の指揮有名資源を狙ったことは、明らかであった。 日本の南部仏領インドシナ進駐は、日米交渉に冷水をぶっかけるようなものだった。ルーズベルトは、そう受け止めた。ルーズベルトは、七月二十六日にアメリカにおける日本資産を凍結する行政命令を下し、すべての日米通商関係を断絶させる措置に出ていたのに続いて、八月一日には航空機燃料と潤滑油の対日輸出禁止に踏み切って、対日封じ込め政策を一段と強化した。 七月十八日、内閣の蹴ってさえ裏切って独走しがちな松岡の追い出しを狙ったこの近衛内閣の改造が行われた。海軍大将は豊田貞次郎だった。 近衛内閣は、国際電話で<マリコ>(米側の態度)の情報を入手するより先に、既にその日のあさのうちに、内部から“最後通牒”を突き付けていた。“最後通牒”を突き付けたのは、陸相の東条だった。近衛は敵閣議前に、とくに東条を招いて、日華事変の終結と撤兵について、陸軍の譲歩を求めたが、東条は頑として同意せず、平然といってのけたのである。 近衛は東条を説得するだけの政治力を持っていなかった。二人の会談は全く対立したまま時間切れとなり、閣議に遷った。閣議の席上、東条はいきなり発言を求めて、用意してきたメモを読み上げた。東条はこれは同義であるといった。あまりの唐突さに近衛は結論を癖ないまま閣議を散会した。 近衛内閣は十六日に内閣不一致を理由に総辞職した。 組閣の待命を受けたのは、東条であった。東条は十八日に組閣を完了し、内閣を発足させた。新外相には、駐ソ大使の東郷茂徳がなった。 兄太郎は 「アメリカ局長になってから、連艦隊司令長官の山本五十六大将から、日米開戦にならぬよう努力してほしいという親書をもらって、非常に感激し、その手紙を額に入れて、自宅に飾っていました。」と。 山本五十六は開戦に反対だった。 上海 時に上海では抗日運動と日本人居留民との対立抗争がたかまるなか、一月二十九日、上海北部の閘北において、治安維持につく海軍の陸戦隊と中国軍との間に、激烈な市街戦が開始された。いわゆる上海事変である。 寺崎が忙しかったので弟の平がグエンの世話をしてくれ、映画などに誘った。 銃声 ニ・ニ六事件のあった年の秋、寺崎はキューバに転勤となった。 その後まもなく上海に転勤となった。 寺崎がハバナに行っていた間に、昭和12年7月の盧溝橋事件をきかっけに、日本と中国は全面戦争に入るという情勢にあった。日本軍は、昭和13年秋に揚子江中流の漢口や華南の広東まで進出し、さらに14年2月には、海南島への上陸作戦を展開した。 寺崎一家は、アメリカ駐中国大使ディック・パトリック夫妻と交際をしていた。彼らは不測のテロからマリ子らを護ってくれていた。 その時アメリカ人記者バーグナーの撮影禁止区域における事件に立ち会った。 寺崎は海軍の部隊に総領事館の車で急行し、バーグナー記者を釈放した。 一方マリ子はブルティッシュ・スクールに入学し二か国語を使いこなした。 忍び寄る影 日中戦争が始まってから、外交における外務省の力は軍部によって骨抜きにされているという状況にあった。 寺崎の妻グエンは東洋に対する関心を持ち、歴史に関わる紫微垣や北京城などに興味をもっていた。 1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに進撃したのをきっかけにヨーロッパ大陸は戦乱の地となった。第二次世界大戦が勃発したのだ。 日本政府はヨーロッパでの戦争に不介入の方針をとった。日本軍は満蒙国境で起きたノモンハン事件で、ソ連と外モンゴルの連合軍によって、大打撃を受け、中国での戦線泥濘化するという情勢にあった。 そんな時寺崎は北京に単身赴任した。 一人っ子のマリ子を慰めるためにペチィという犬を飼った。 日米関係は一段と険悪になり、日米通商条約は、日本の東南アジアへの進出意図を封じるねらいで、アメリカ側から破棄を宣告され、すでに両国は無条約状態となっていた。9月には三国同盟が調印された。 寺崎の兄太郎は日米関係の修復のため寺崎をワシントンに派遣することを考えていた。 ワシントンに赴任した寺崎はグエンと二人が日本とアメリカの「かけ橋」になろうと誓い合った。 三国同盟について外相松岡洋右は 「三国同盟はわが外交の枢軸であることを重ねて宣明するとともに、これに対するアメリカの誤解は笑止千万であることを指摘したい。我が国は野村大使を派遣し、日米間の誤解を一掃せんこと努力を傾けんといているのである」などと述べている。 三万三千キロ 時は1941年12月8日、帰国できると思った矢先ラジオから日本軍による真珠湾攻撃の知らせが届いた。 抑留日本人にはペットの同乗は認められないということで、愛犬ペティを連れて行くことができずマリ子は悲しんだ。 乗った船の寝室は特等のAから船倉を改良した最下級のEまで、五つのデッキの区分されていた。部屋の割り当ては、日本人社会における身分と位階にしたって行われた。 マリ子はペチィのいない寂しさを紛らすため卓球をして過ごした。 舟はやがてアフリカのロレンソ・マルケスに着いた。 そこで寺崎とグエンが結婚するときに出渕大使に結婚の承認を働きかけてくれた先輩である加藤外松の死を知った。 加藤の遺骨は弓子夫人とともに日本まで運ばれた。 その後シンガポールを経由したが、シンガポールで乗り込んだ海軍の将校が、引揚者をグループに分けて、連日戦局の逼迫を告げ、西欧的自由主義を一掃して、忠君愛国の決意を固めるべきだと、説いた。 やがて横浜港に着いたのは8月20日だった。 開戦 野村大使は東郷新外相に宛てて、内閣が発足した十八日に帰朝願いを打電したのに続いて、二十二日には「小生は前内閣の退陣に準すべきものと確信す」との辞意表明の電報を打った。だが、帰朝後も辞表表明も認められなかった。 日本を離れてすでに十か月になる野村を助けるために、特命全権大使来栖三郎が十一月十五日、ワシントンに着いた。来栖は赴任を一日も急ぐため、当時としては異例の香港発のパンアメリカン航空機を利用した。 野村は、来栖の来援をよろこび、意を強くした。週明けの十七日、二人はそろって国務省にハルを訪問した。ハルは直ちにルーズベルトに会わせるため、ふたりをホワイト・ハウスに案内した。 アメリカは最後のカードを見せた。それは、十一月二十六日、野村と来栖がハルを訪ねると、その後「ハル・ノート」といわれるようになる書類を三通受け取った。その内容は、かねてアメリカが主張していた「領土保全」「内政不干渉」などの原則に沿って、日本軍の中国および仏領インドシナからの撤退、中国における重慶の蒋介石政権以外の不承認などを強く要求していた。このような要求は、東条内閣とりわけ軍部の容認できるものではなかった。 翌二十七日に開かれた政府統帥部の連絡会議は、「ハル・ノート」は「最後通牒」であり、「アメリカ側ではすでに対日戦争の決意を成しているもののようである」と解釈することで意見の一意を見た。 野村大使は十二月になっても、「ハル・ノート」に対する日本政府からの回答が入電しないので、じりじりしていた。 日本ではすでに十二月一日に、宮中で開かれた御前会議で、決定的な結論を下していた。 「十一月五日の帝国国策遂行要領に基づく対米交渉対に成立するに至らず、帝国は米英蘭に対し開戦するというものであった。この極秘の決定は、ワシントンには知らされなかった。開戦の方法は、奇襲作戦で臨むことにされたから、「ハル・ノート」に対する回答でもある日本の最後通牒は、Xデーぎりぎりまでアメリカ側への提示を留保されることにうなった。Xデーが、「十二月八日」と聞けられ、十二月二日夕刻、連合艦隊に作戦命令が発せられていた。 寺崎は局面打開のためアメイカ・メソジスト協会はの長老スタンレイ・ジョンズ博士と接触した。内容は、局面打開のため大統領から天皇陛下に親電を打ってもらうことにあった。 しかし十二月八日日本はハワイのパールハーバーを奇襲攻撃し、宣戦布告をした。 抑留 寺崎一家はFBIによって大使館に抑留された。 十二月八日、外務省の書記官を命じられ、大使館と外務省の仲介の仕事をすることになった。われわれは暗号電報を発してはならず、全ての電報は外務省に提出し許可を受けねばならぬと通告された。 十二月三十日になって外交官や商社員などの公用旅券保持者は、キャンプに収容すると通告され、ヴァージニア州ホット・スプリングに収容された。 抑留生活でマリ子を慰めたのはなんといっても愛犬ペチィであった。 ニニギノミコト 昭和16年ころ、寺崎一家はお茶の水に遷る。 全国の公立小学校は、国民学校と呼ばれた。 マリ子はそこで钁葉台地小学校に入学する。 マリ子が辛い思いをしたのは国語の時間であった。 「ニニギノミコト」を発音できずに「ニニギミノミコト」といってしまう。何度もやり直ししている間、同級生に散々笑われてしまった。 一方寺崎は館町を悪くし、血圧が高いというということで静養することになった。 職務的には一時期「待命」ということになった。 その後寺崎一家は昭和18年にお茶の水から目黒に遷ることになった。 目黒に遷ってからマリ子は外国人扱いとしていじめにあった。 そんな中マリ子は絵に興味を持ったが、その絵は絶望と苦悩を表す絵ばかりであった。 一家は寺崎の静養をかねて箱根に避暑に行くことになった。 寺崎は春が過ぎたころから体調を取り戻し、六月には新しい辞令を受け取っていた。四月に行われた東条内閣の改造で、外相にマリ子の名付け親である重光葵が就いたことが、寺崎の復帰につながった。彼は政務局第七課長という地位で、アメリカなどの敵国に抑留されている邦人とその留守宅の家族の援護問題を扱うのが、主な仕事であった。 グエンとマリ子は外人扱いをされ様々な嫌がらせに会っていた。 寺崎は静養と入院を繰り返す日々を送っていた。 蓼科 昭和十九年寺崎一家は空襲に備えて疎開を勧められた。 寺崎は血圧が高かったため聖路加病院に入試、その後退院した。 一方マリ子は小田原の住まいで読書に明け暮れるようになった。 愛犬ペティを失ったマリ子は今度は小鳥をかわいがるようになった。 六月にはB29の空襲が北九州にはじまり、七月にはサイパン島からアメリカ軍の手中に落ちていた。十一月になると東京上空への偵察飛行が開始された。 寺崎の弟平が一時戦士の報告を受けたが無事帰還した。 平の話によると、戦艦武蔵から巡洋艦基礎に遷り、南方に出撃した。基礎はマニラ湾でアメリカ第五十八機動部隊の艦載機に攻撃を受け、沈められたが、小型船に救助されマニラに上陸した。十二月になって、海軍の飛行艇で内地に創刊されたが、肺炎を起こしてしまった。しばらく静養ののち、熱海の大野屋旅館に仮設された海軍熱海病院勤務を命じられたということであった。 蓼科に疎開したマリ子は「高慢と偏見」などの読書をする日々が続いた。 マリ子は一度だけウィルス性のデング熱のような症状で寝込んだことがある。 一家は栄養失調にかかるほど、食糧難意に見舞われた。 やがて疎開先で天応による終戦の詔勅のラジオ放送があり終戦を迎えることとなった。 天皇の通訳 終戦後寺崎は外務省から復職を命じられ、政務局勤務ということになった。十一月待つには、終戦連絡中央事務局連絡管という肩書きで、日本政府と占領軍総司令部との連絡役を担当することになった。連合国総司令官マッカーサーは日本の政治機構の大改革を推進しようとしていたのに対し、被占領国となった日本政府側はそれに対応する体制がまだ整っていなかったから、連絡官といって、政治の激流のさなかに身をさらされる難しい仕事だった。 呉海軍病院の副官となっていた平は、広島の原爆がいかに筆舌に尽くしがたいかを語って聞かせた。 「八月六日の朝、多くの兵隊たちとともに、ただならぬ爆発音に続いて広島方向にキノコ状のクモが天高く立ち上るのを見た。やがて広島が大災害を受けたらしいことが伝わってくると、外科医の平は、病院長から主筋を命じられた。 平が軍医や衛星弛緩、衛生兵、看護婦ら約四十名を率いてバスや乗用車数台で広島に着いたのは、午前十一時ころだった。市内は大火に包まれ、川にかかる橋まで目ていて、近づくことはできなかった。陸軍病院長の指揮下に入れといわれても、陸軍病院がどうなっているのかさえ、まるでわからなかった。車を捨て、山越えで東練兵場にたどり着くと、数百人に上る負傷者が横になっていた。双葉山の洞窟の中には第二司令部が置かれていて、街をもおろすこともできや。広島が壊滅しちゃことは、一目瞭然だった。 平は直ちに暮れに伝令をだし、「広島市民は八割方、死傷」と伝えた。」と。 また、平はマリ子に 「それから三日三晩広島にいて、魚の浮き上がった池の水を飲みながら、負傷者の救援にあたったけれど、それはひどいものだった。身体の皮膚が焼けただれて剥げ落ちていたり、顔は腫れ上がってもが見えないので、手探りで歩いていたり、人々の姿はこの世のものと思えなかった。その時はまだ原爆だということはわからなかったけれど、負傷者の手当てをしているうちに、どうも変と思った。というのは、白いシャツを着ていたところは、やけどを負っていないのに、黒いズボンなどをはいていた部分は、ひどく焦げていたからだ。 それから二列に並んで向かい合って銃剣術の訓練をしていた兵隊たちの火傷が、完全に二種類に分かれていた。一方の列の兵隊たちは、全員顔を焼かれているのに、もう一方の列の兵隊たちは、頭の後ろから背中にかけて火傷を追っていた。これは一定の方角からの戦線かなにかでやられたのだな、とおじさんにはわかった。最も悲惨だったのは、道路のあちこちに、乳飲み子を抱いていた母親が息も絶え絶えに倒れ、赤ん坊が火のついたように泣いている光景を、あちらことらでみかけとことだった。応急手当をして、励ましの言葉をかけてやること以外に、なにをしてやることもできなくて、本当に団長の思いだった」と。 年が明けて1946年になると、マッカーサーによる日本の民主化政策が、農地化企画を手始めに、次々に断行された。 二月下旬に寺崎は宮内省御用掛という職務に着いた。宮内省と連合総司令部との間に立つ御用掛は、ある意味で双方の助言者的な性格さえ持っていた。 寺崎は、その年からよく二十作曲念いかけて、数回にわたって天皇・マッカーサー会見の通訳を務めた。宮内省は新憲法施工により宮内省と改められた。 寺崎は天皇・マッカーサー会見の時の通訳を務めていた。 その会見の内容は寺崎ら御用掛の報告書でしか明らかにすることができないが、宮内省はその報告書をいまだ公表していない。 寺崎が通訳以外の仕事をしていた時のことを若干うかがわせる資料がある。 たとえば、総司令部外交局長シーボルト本国のディーン・アチソン国務長官に宛てた1948年二月二十七日付の報告文である。 この報告書によると、二月二十七日に寺崎はシーボルトを携え、あくまで個人的な見解として、アジアの防衛線についての見解を進言した。時あたかも米ソ冷戦が激化しつつあり、中国大陸では毛沢東の共産軍が蒋介石の国民政府軍と戦闘を繰り広げていた。そういう中で、極東の自由主義諸国を守るにはどうすべきかについて、寺崎はシーボルトに述べた。 日米が友好関係を保ちつつ、ソ連の脅威に対抗するというのは、寺崎が上海にいたころから一貫して抱いていた思想だった。日米関係は大きく変わったけれども、寺崎は新しい国際情勢に対応した形で、自分の持論を再構築したのであろう。 寺崎の述べた「外角防衛線」構想は、朝鮮戦争後にアメリカが〇〇するに至る極東の防衛線なのだが、この時点では、アメリカは西ヨーロッパ防衛に重点を置き、アジアを軽く見ていた。そして、よく1949年には韓国の駐留米軍を撤退してしまった。このため、1950年に朝鮮戦争が勃発した時には、アメイカは慌てて朝鮮半島に大量の軍隊を再投入させるという事態になった。 このように寺崎が単なる御用掛の立場を超えて、占領軍の交換に対して防衛政策に関する意見具申までやってのけたあたりは、いかにも腹のあるやる気十分の外交官だったことを示している。 寺崎の国際政治観は、戦前戦後を通じてほとんど変わらなかったが、生前生活の面では、戦後キリスト教の一宗派であるクエーカー教徒になったことだった。 その頃アメイカから愛犬ペティが死んだという知らせが届きマリ子はひどく悲しんだ。 一方マリ子は新聞やニュースで報道された東京裁判に関心を示し、わからないことがあると、グエンや寺崎に納得行くまで聞いた。 東京裁判は、1948年四月にすべての審理が終わり、判決をまとめるまで約半年間休廷した。 そのなかで天皇退位説という問題が持ち上がった。 報道された天皇退位の理由は、東京裁判の判決で臣下の極刑が確実視されていたため、自らも戦争の道義的責任をとろうとしているものだった。その真偽のほどは不明だが、もし天皇が退位するようなことがあれば、日本の社会が混乱に陥ることは確実である。それはマッカーサーを始め総司令部の望むところではなかった。天皇退位が日本の秩序を破壊し、共産主義に権力を握る機会を与えかねないと判断したからである。 寺崎平は、 「ソ連は天皇を戦犯にしようとしたが、アメイカは反対だった。兄は総司令部が天皇を護る方針を堅持するよう、随分運動したと聞いている。宮内庁上層部の意向が働いていたようだ。そのことで兄は心身ともに消耗しつくした。後に兄が亡くなった時、弟思いの長兄の太郎は、宮内庁から届けられた花を自分の手では受け取らなかったほどだった。もっとも兄としては、人生のなかで一番仕事に生きがいを感じて時期ではあったと思う」と。 マリ子は相変わらず絵や本を読みふけっていた。 十一月十二日東条英機ら七人に絞首刑が言い渡されたが、重光葵は禁固七年の刑だった。 別離 日本の経済復興は遅々として進まず、ストライキの続発など、社会の混乱はつついていた。東西の冷戦は深刻になるばかりで、第三次世界大戦の危機さえ叫ばれていた。 訃報 1950年六月に十五日早暁、朝鮮半島の三十八度線ぞいの各地で、北朝鮮と韓国軍の間に戦闘が開始され、たちまちのうちに両国間の全面戦争に発展したのだった。韓国の駐留軍は一年前に撤退していたこともあって、韓国側の軍事量は弱く、首都ソウルはわずか三日後に陥落し、韓国軍は南へ後退する一方だった。 アメリカはマッカーサーを最高責任者として、積極的な軍事介入に乗り出すことを表明する一方、七月に入ると、日本政府に対し、のちに自衛隊となる国家警察予備隊七万五千人の新設と海上保安庁八千人の増員とを指令した。極東における戦乱拡大の危機感は高まり、日本各地に基地を持つアメリカ軍の動きが活発になった。いつ日本が戦乱に持ちこまれるかわからない見通しだった。 日本国内からのアメリカ軍の悪戦苦闘に対し、北朝鮮が日本本土に攻撃を仕掛けてくることさえ、あり得ないことではなかった。アメリカ軍の危機感は非常に深刻で、マッカーサーは北朝鮮に対して原爆の使用さえ本気で考えていた。 そんな情勢のなか8月二十日寺崎死すの電報が届いたのだった。 英成が戦後天皇の御用掛をつとめてまもなく心労が重なって他界した時には、マリ子もその母もアメリカにいて臨終に立ち会えなかった。マリ子の学校のこともあるが国籍という問題も絡んでいる。
by jamal2
| 2022-05-11 06:54
| 本
|
Comments(0)
|
検索
カテゴリ
全体 今月のつぶやき 本 暮らしとジャズ 古本かジャズ BLUE NOTE JAZZ JAZZ一人一枚 ジャズ名曲 プラモデル 映画 落語 歴史 旅 ライブ 文化 時事 日記 その他 ビートルズアンソロジー ジャズ迷走 我が青春のラジオ・デイズ 未分類 記事ランキング
最新の記事
以前の記事
2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 more... 外部リンク
フォロー中のブログ
ブログタイトルについて
ファン
最新のコメント
|
ファン申請 |
||