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「満蒙問題」に於ける石原莞爾というキーパーソン

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1931年(昭和6年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳條溝(湖)で、関東軍が南満州鐵道の線路を爆破した事件に端を発し、関東軍による満州全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定に至る、日本と中華民国の間の武力紛争に関して、その遠因、背景、謀略の進捗に関して頭を整理することが出来ず混乱の極みだったのだが、それを整理し救ってくれたのが、半藤一利氏の『昭和史 1926~1945』における「昭和がダメになったスタートの満州事変」だった。
この事変に及ぶ所謂「満蒙問題」の解決、戦略を次々と構想した石原莞爾という人物をキーパーソンにして描いてみせた。
陸軍中佐だった石原は「世界最終戦争論」という世界政戦略の大構想をまとめた。第一次世界大戦後の列強の世界戦争の組み合わせ決勝で、日本が決勝戦に備えるに、満州をしっかり確保し、発展させ国力を養う、中国とは戦わずに手を結んで、最終的には中国の協力を仰ぎ、日中共同で満州を育てていく、という構想であった。
昭和3年十月、張作霖爆殺事件で辞職した河本大作のあとを受けて関東軍の作戦参謀として旅順に赴任。それからは次々に作戦構想を文書にして東京の参謀本部に届ける。昭和4年七月「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決案」では中国との貿易を通しての共同作業によって日本の国力を養い、米英に依存している工業を独立させておくべきということである。
同年同月の「関東軍満蒙領有計画」では、最終的に満蒙を日本の領土にしてしまうにはどうすべきか。それには張作霖亡きあとの東北軍司令官である張学良を掃討し、武装解除をして満州を平定する。そして軍政下において治安を維持する。満州国民への干渉は極力避け、日本、朝鮮、中国の三民族の自由競争により産業を育成する。つまり石原は満州を日本の国力・軍事力育成の大基盤としておかねばならないという構想のもとに様々手を付けはじめる。
さらに昭和6年五月、「満蒙問題私見」を発表し、石原の大戦略を受けて参謀本部が「満蒙問題解決方策大綱」をつくるに至った。
内容はいきなり植民地にするのは無理なので、まずは満州に親日の政権を樹立する。そのためには皇帝をおくーのちに清朝の末裔となる愛新覚羅溥儀(略して溥儀)がなる。こうして一応は独立国のかたちにしてやって、その後に領有するという方針だった。注目すべきは、その大方針を実行に移すにはどう考えても内外の理解が必要であると述べられ、その「内」とはマスコミをさすことである。マスコミが軍の政策に協力しないと、つまり国民にうまく宣伝してもらえなければ成功しないということを軍部が意識し始めたということである。張作霖爆破事件以降、陸軍のもくろみが全部パーとなったのは、反対に回ったマスコミにあおられた国民が「陸軍はけしからん」と思ってしまったのが原因だったと反省したことによる。ここから先はマスコミ対策が参謀本部の大仕事となって、新聞社及び普及しつつあったラジオ、日本放送協会への働きかけが、いろんな形でどんどん強くなることになる。

これ以後、軍部、マスコミ=国民世論、天皇及び宮中グループの駆け引きのなかで軍部の暴走が始まったとみることができるのではないかと思われる。
関東軍の石原及び参謀本部の大構想の一方で国内の新聞雑誌で満蒙問題が盛んに論じられ、「満蒙は日本の生命線である」と叫ばれるようになる。これは当時の満鉄の副総裁だった松岡洋右が「第三回太平洋問題調査会」で満州問題を権威のように獅子吼したため流行ったのだが、これに次いで森恪(つとむ)が「二十億の国費、十万の同胞の血をあがなってロシアを駆逐した満州は日本の生命線である」とぶったことで国民感情がピタッと一致するようになった。こうした強硬派だけでなく、当時の奉天総領事だった吉田茂が「対満政策私見」で「わが民族発展の要地たる満蒙を開放せられざる以上、財界の快復繁栄の基礎なりがたく、政争緩和すべからず。これ対支、対満蒙政策の一新を当面の急務なさざるをえざる所以なり」
要するに、日本の国民感情は満蒙の植民地化へ向かいつつあった、そんな世の中の動きに乗じて陸軍は「時機が来た」と思ったのである。
そんな折、1931年6月27日大興安嶺の立入禁止区域を密偵していた陸軍参謀中村震太郎一行が張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に拘束され殺害される中村大尉事件の発生と満州で中国の農民と朝鮮人農民が衝突する万宝山事件が起きたが、詳細は略するがこれによってますます国民感情が猛りだすことになる。
新聞はこの頃まだ満蒙問題は武力で解決すべきではないと冷静に対処していた。

こういう状況のなかで事態を憂慮していたのは、昭和天皇及び宮中グループだった。
昭和6年発足した若槻礼次郎内閣の陸軍大臣南次郎大将を呼んで
「軍は軍規をもって成り立っている。軍規がゆるむと大事を引き起こす恐れがある。軍規を厳正にせよ」
ところが、軍部はこれら反対論を屁ともおもわず、ますます陰謀の傾向を強めていく。
宮中グループは軍部を抑えるべく、天皇をして南陸軍大臣を呼んで、万宝山、中村大尉両事件といい、すべて非は向こうにある、という態度で臨んでいては円満な解決ができない。とにかく軍規を厳重に守るよう再度注意したことに、陸相は「もっともです」と応じ、西園寺公望も念を押すように、
「満蒙といえども支那の領土である以上、こと外交に関しては、すべて外務大臣に任すべきであって、軍が先走ってとやかく言うのは甚だけしからん」ときつく叱る。
が、陸軍としては、しきりに弁明しながらも従うつもりはなく、南陸相、参謀総長金谷範三大将らを中心に、陸軍は関東軍の方針を是認し、その作戦計画に基づいて九月二十八日に謀略による事件を起こし、それを契機に満蒙領有計画を強力に推し進めると決めていた。
関東軍の高級参謀、板垣征四郎大佐が東京に出てきて、軍事課長永田鉄山、補任課長岡村寧次郎、作戦課長今村均、作戦部長建川美次と極秘の会談をもち、「関東軍はやりますよ」という打ち合わせをしていた模様である。
板垣は満州に戻り、八月下旬に本庄大将が旅順に赴任した際、
「何か突発事件が起きたとき、陸軍中央にどうすべきかの請訓を仰ぐか、あるいは独断専行するか」と問う。本庄は板垣を見据えて
「私は軍司令官としてあくまで陸軍中央の指示に従うつもりである。が、独断専行を決するに躊躇するものではない」と答えたという。

というような経緯で満州事変へと推移していくのであるが、しかしこれをもって関東軍の独断専行だけに責任の所在があるという見方で統帥権者である天皇の免責ということにはなるまい。後述するように軍の暴走を黙認裁可という事実は知らなかったということにはならないからである。

満州「事変」とは一時的な軍事的「事件」ではなく、これに端を発して中国への侵略を含む「大東亜戦争」へと拡大する突破口となったのであり、「自存自衛」だったとする歴史修正主義の正当化を許すものではない。国際法を無視した違法行為だった。
満州事変が勃発したとき、アメリカ国務長官スチムソンは、日本も加わって締結された「不戦条約」(1928年)及び「支那ニ関スル九カ国条約」(1932年)という国際法に対する違反だと忠告した。つまり侵略だという。
「1931年九月に日本軍が満州における支那政府を攻撃したことは、世界大戦(第一次)によって惨禍を蒙った諸国が樹立した戦争制限と防止の新組織の上に加えられた最初の重大なる打撃であった・・・当時、侵略国(日本)が軍事的に成功したことは、既に他の不満なる独裁政府をして、該組織に対し更に以上の襲撃をなさしむることを奨励するに結果した」
スチムソンがここでいっている「戦争制限と防止の新組織」とは、国際連盟規約及び「支那ニ関スル九カ国条約」そして「不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)のことである。
その一つ、「不戦条約」の第一条には、
「締結国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトを非トシ、且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スルコトヲ、厳粛ニ宣言ス」と記されている。
日本は、この国際条約(法)を一方的に破り、国際紛争解決の手段として満州事変を発動した。
その結果が戦後憲法第九条にある
「日本国民は・・・国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言するにいたる。




by jamal2 | 2017-05-18 07:07 | 歴史 | Comments(0)


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