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『ゲルニカ物語 ピカソと現代史』荒井信一

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これを読もうと思った動機は朧気ではあるが憶えているのは戦場カメラマンのロバート・キャパの伝記を当時交流のあった友人から借りて読んだのが切っ掛けだったと思う。その著書のなかにあった「国際義勇軍」の義勇兵の表情を寫した一枚にいたく心惹かれ、これはいったいどういう事態のことなのか知りたくなった。第二次世界大戦の前哨戦であったスペイン内戦のことを詳しく知るようになった著書があった筈だが今は覚えていない。この内戦に関わったアーネスト・ヘミングウェイにも当時興味があったがこの内戦を描いた有名な『誰がために鐘はなる』を読んだこともない。彼については雑誌「太陽」の特集だかを読んだのが切っ掛けで、掲載してあった彼のライフスタイルを寫した写真に見惚れたものだったが内戦とは何も関係のない部分での興味であった。

今回読み直している著書は1937年のパリ万博のことから始まる。この年のテーマは「近代生活における芸術と技術の国際博覧会」として開催された。時代の寵児ともいうべき航空機はその象徴であり数多くのパヴィリオンのなかでひときわ人目をひいたのが「航空館」であり、主ホールの円天井から実物の飛行機が吊るされ、それをいくつもの透明なリング状の円筒形の通路がお互いに交差しながらとりまき、自由に空間を飛行できる人間の達成を誇示するようにみえた。

また急速な変化を示しはじめた建築の世界にも注目があった。フランスのル・コルビュジエやドイツのバウハウスといったモダニズムの建築は、鉄、コンクリート、ガラス、プラスチックなどの大量生産資材を使って、簡素な機能美を実現していた。

主会場の中心には、不況下で既成の施設を転用された例もあるなかで、新たに建てられたトロカデロ宮(シャイヨー宮)が全体の正面を形作っていて平和にかんする世界史のエピソードにちなむ展示物が配置されるなか、一際目を惹くのが当時のスペインを描いた大きな写真壁画だった。1936年スペインでは共和主義諸党、社会党、共産党などによる人民戦線政府が誕生するも、植民地モロッコで軍部の反乱がおきてスペイン本土の各地でも内戦状態になっていた。その運命の七月十八日に撮られた二組の写真で構成された写真壁画には一組は内戦下でもなお営まれていた市民たちの平和な生活と、もう一組は学校を爆撃されたあとの子供たちのむごたらしい犠牲を描写しているものであり、戦争の悲惨のシンボルとしての「飛行機」による爆撃がとりあげられている。

テーマ館と国別館とがあるなかで主会場のトロカデロの解放感と軽快さに反して平和のイメージにそぐわない巨大な二つの国別館があった。セーヌ河寄りに互いににらみあっているような建物、ドイツ館とソ連館であった。

ドイツ館はヒトラーが任命した建築総監督アルベルト・シュペーアの指導のもとに建てられた。ヒトラーの6人の側近中最年少のシュペーアである。20歳代でヒトラーに重用され第三帝国の象徴的都市「ゲルマニア」構想を計画した人物である。そのシュペーアによって造られたドイツ館は、万博のパヴィリオンが全体として機能主義的なモダニズム建築が多い中、文化的・公共的建物は偉大な古典的デザインの伝統に沿ったものでなければならないという持論のもとに建てられた。古典主義は、国家の偉大性と重要性を示すためルネサンスのイタリアや、大革命後のフランスで用いられた様式で、ギリシア、ローマのモニュメンタル建物を思われる威容を誇っていた。

一方、ドイツ館と道路をはさんで対峙したソ連館は、建築家イヨハンの設計によるもので労働者階級の思想、感性、理想をあらわすというコンセプトで背後から階段状に高層化する先端の建物が、正面を形作った。その塔上の屋上には、労働者と集団農場を現した彫像がのせられ、高さ20mもあったという。

この二つの異様な建物が対峙している光景を訪れた多くの人がその不調和に心乱されたようである。

モロッコにおける反乱軍の蜂起が共和制のスペイン本土に飛び火し人民戦線との内戦状態となったスペインにおいて、フランコが独伊に対し援助要請し、ドイツは空からイタリアは陸からの支援を開始したが、マドリードでの膠着状態、グアダラハラでのイタリア軍の敗北など、如何にしてゲルニカを含むバスク地方へ攻撃の照準を定めていったかが記されている。終始戦況をリードしたドイツ軍がスペイン北部のバスクに照準を充てたのは支援と引き換えにその鉱物資源を手に入れることを期待したからである。ドイツの再軍備において経済の自立と新設されたドイツ空軍の地位を確立する役割を担ったのはゲーリングだった。

「ビルバオの鉄鉱石をドイツの重工業に供給する必要は、ヨーロッパの平和をめぐる他のいかなる配慮より重要であります」(ヒトラー)

ゲルニカの西に隣接し海岸地帯に接するビルバオをドイツ軍が占領する意義は、軍事経済的に二重の意義があった。ビルバオ占領により輸送ルートが短縮され鉱石輸送が強化される、また拮抗しているイギリスの軍備計画に打撃を与えることであった。このバスク地方の諸都市の攻撃に力を発揮したのがシュペルレ司令官率いる「コンドル軍団」であった。メッサーシュミット戦闘機、ハインケル爆撃機、ユンカース急降下爆撃機を擁する新鋭の空軍部隊は、後日論議をかもした「無差別爆撃」をこのバスク地方の諸都市に敢行した。『ゲルニカ物語』の著者はこの一般市民を巻き込んだ非道な爆撃について力点をおいて紙幅を割いている。この無差別爆撃とは、戦線を後方から支える生産・輸送などの経済的拠点に打撃を与えるという以外に、戦略爆撃の重要な狙いは、無差別の大量攻撃によって一般市民の戦意を低下させることことにある。コンドル軍団の都市爆撃にも、当然このテロ攻撃の意図が含まれていたと指摘する。再軍備期にあったドイツにあって、スペイン内戦は新兵器や新戦術の格好の実験場となったのだが、ヒトラーの頭のなかにはこのテロ(恐怖)の為の爆撃という考え方に終始固執する面があった。

当時のドイツの軍事ジャーナリズムにおいてさかんに「全体戦争」政策が喧伝されおり、1936年5月付のフランスの新聞『フィガロ』紙によれば、ドイツの『軍事週報』の最新号は、「全体戦争」を軍隊と軍隊の戦争でなく、軍隊と全住民との戦争と規定しており、この新しい戦争観念によれば、民間人に対する無差別攻撃も肯定されることになる。事実コンドル軍団においてもフランス国境に向かう難民を爆撃し、機銃掃射せよという指示が出ていたとされる。

「『ゲルニカ』誕生~ピカソの苦悩、作品の解釈」ではメイキング・オブ・ゲルニカということとゲルニカに描かれた諸シンボルの解釈についてである。当時彼にはプライベートなことで問題を抱えていた。元ロシア・バレエ団のバレリーナだった妻オルガ・コクローヴァとの結婚生活の破綻の一方若い愛人マリー・テレーズ・ヴァルターとの愛情生活の狭間で苦しんでいた。マリー・テレーズの妊娠によってオルガと離婚するのだが、国柄カソリック国のスペインの国籍を捨てない限り離婚はむずかしく、法的手続きについて何か月も弁護士と協議したあげく、離婚という考えを放棄しオルガとは別居ということになった。そのころの彼の心理状態はかなり荒れたものだったようで約20ヵ月にわたって絵を描くことをやめていた。

この苦悩の期間を経て『ゲルニカ』の製作に立ち向かうようになるのだが、著者は幾度となく変容するスケッチのなかの諸シンボルの行方とその意味合いの変化を追って解釈を図っている。その謎解きめいた解釈を追っていくとある種感動に似たものを感じるが、諸シンボルである牡牛、馬、灯火を掲げる女、横たわる兵士、電灯、死んだ我が子を抱える女等がスケッチごとに構図上の位置が変わり描かれ方が変化していくに従って、そのひとつひとつのシンボルの意味が違ってきたり逆転したりという解釈を施し、最終的には古典的なテーマである「黙示録」にまで行きつくと同時にその政治性について言及する。

ピカソ自身はこう語る

「絵というものは、事前に考え抜かれて定着されるものではない。制作の途中で、思想が変化するように絵も変化する。そして描き上げられた後でも、それを見る人の心の状態にしたがって変化し続ける。絵というものは、日々の生活によって私たちに課されるような変化を経験しながら、生き物のように生涯を生きる。絵はそれを見る人の目を通してのみ生きるのであるから、これは全く当然のことであるが。」
「絵はそれを見る人の目を通してのみ生きる」とは至言であると同時に、一旦描かれた作品は作者の手を離れてそれを見る者の器量に委ねられる「怖さ」を孕んでいる。パリ万博においてスペイン館を訪れた者に去来する印象や感想は多様であったし、戦後各国を巡回した際にも同様の反応があったことが記されているが、シュールレリアリスティックな作風故に、また主題の政治性故に捉え方の賛否はもとより解釈の仕方の違いがあるのだが、最早作者はそれを傍観する立場にしかいない。様々な論評を横目にみて1940年代はじめにこう語った。

「牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。大衆、観客は、馬と牡牛を自分で解釈できるシンボルとして見ようとしている。」











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by jamal2 | 2017-05-12 01:30 | | Comments(0)


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