幼な心と絵本

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 中勘助の『銀の匙』は、病弱で気が弱く、見知らぬ他人に出会うと付きっきりに世話をする叔母の背に隠れてその裾を放さない少年である。ある時居間の引き出しから銀の匙をみつけた。わけを母から聞くと・・・というような出だしから始まる。

小冊子ながらなかなかこれを読む機会がなくて漸く読んだと記憶する。
弱虫の泣き虫の幼心の話である。良く泣く。こんな泣き虫の話にゃ付き合いきれないと思いつつ、妙に泣き所がよくわかる。きっと僕もこのような少年であったかも知れない。だからわかる。
 中勘助は漱石の弟子であり、漱石はこの『銀の匙』を絶賛した。漱石のどこも真似していない。文体は大人が見た子供の目線ではなく、あくまで子供の目線なのである。だから舌っ足らずな言葉が多い。今時の子供や若者が発する言葉に似ている。明治の作家がこんな文章を書くのは意外でもある。だが、語られる心情はそういう言葉でなくては表現し得ない。そう思えば今時の作家の文章に呆れてばかりはいられない気もする。それで良いのかも知れない。が、やっぱり明治の作家の文章が好きである。

 また、車谷長吉の『鹽壺の匙』では、車谷が拾い出す幼なごころの情景は、懐かしさと共にせつなさを伴った子供心に潜むむごさが漂っている。

 母の胸にむしゃぶりついて乳を呑む弟の姿に、紙くず箱を持ってきて「のぼちゃん、ここへ捨て」と言い、自分もと一度唇を出すと「あんた、兄ちゃんやろ」と手酷く撥ねつけられ、恥ずかしさで顔に火が出る思いをしていた頃、縁側で絵あわせをしていると飼い犬が寄ってきて「おいでおいで」をする。それをみていると母が来て一緒に絵あわせをしてくれないものかと思っている自分の心が映って、そういう飼い犬の惨めさ思って、お前なんか死ねと思った。と、そこへ弟が這いだしてきてせっかくの絵あわせを滅茶苦茶にしてしまう。逃げても追ってくるので、癇癪を起こして弟を叩く。そうすると火がついたように弟がなき、母から「あんたは弟を一つも可愛がってやらへん子ゥや」とまた叱責をうける。疳の虫が堪え性がなくなって、突然ひきつけを起こし、母の顔に裁ち鋏を投げつける。結果、背中に灸を据えられるか、便所の壺に溜まっているものの上澄みを呑まされる羽目になる。

 叔父の婚礼の日に、自分より一つ上の叔父(母の末弟)が水鉄砲を持ってきていて、自分をねらい打ちする。それが妬ましく奥の間土間に入っていた。誰もいなかった。焜炉に大きな薬缶がかかっていて、湯が滾っていた。そこへ漸く歩き始めた弟が内土間から現れて、両手を広げてよろよろし始めた。面白いものをみつけた風で薬缶に寄っていく。注ぎ口から噴き出している蒸気にさわりたい。両手を前につきだして近づく。
「行け、行け」とそこで思った。
 弟は薬缶のうえにつんのめり、婚礼がめげる騒動となった。自分は土蔵の二階に隠れて、鉄格子の嵌った高い小窓から春の空を見ていた。弟の顔に火傷の痕が残った。

 こういう情景は、兄弟を持つ自分の記憶には探ればいくつも種があって疼く。ぬぐい去れない「むごさ」だが懐かしくもある。
 だが年端がゆくと、軋むように近かった関係も次第に疎遠となり隙間が出来て、久しぶりに会うと面映ゆくうち解けられない遠慮がちな、他人を見るような関係となる。

 男の子は「部分」にこだわる。時計の針を裏で正確に時を刻む多くの歯車の仕掛けに眼を見張り、毛細管現象を利用してインクを適度にペン先に送る万年筆の仕組みに感心する。自動車のシリンダーの中で着火、爆発し動輪に伝える仕組みに熱狂する。
 女の子であれば時計のデザインが肝心であり、万年筆が綴る恋文の甘さに命がけとなり、車は走ればよいのである。男のそういう部分は「ウザイ」のであって、生活上の用がなせば何ら関わりたくないという傾向だ。

 今回はそういう話をしたいのではく、「絵本」についておもいついたことを書いてみたかった。
 僕が幼少の頃母に読んでもらったもので一番記憶に残っているのは『ちびくろサンボ』だ。
 黒んぼの男の子が虎に追いかえられて、椰子の木に登って逃げた。追ってきた虎はその椰子の木の周りをグルグル回っているうちに、とうとうバターになってしまったというところだけ憶えている。
 これは凄い発想だと思うのだが、当時の僕は本当にそうなるものだと思ったに違いない。

 これに似た母から聞いた話で、家族で夜に乗ったバスの窓から見えた月が、バスがどんどん先に行ってもついてくる。とうとう家についた時、バスについてきたお月さんが夜空にぽっかりうかんで動かないでじっとしている。その時母に「お月さん、ずっとついてきたんだね」と言ったそうだ。

 こういう幼いこころに寄り添うような絵本との出会いはきっとその人の生涯にとって原風景にも似た刻印をなすものだろう。
 
 もうひとつ僕の原風景にともなう話で、弟が生まれると言う時期、釧路に赴任していた父の家に祖父が僕を迎えに来て、夜汽車にのって祖父の官舎のあった小樽へと向かった。
 僕はその夜汽車が寝台列車で、初めての経験として寝台に寝ると云うことがとても驚きで愉快だったらしい。
「これ(寝台)はいいね」などと祖父に云ったらしく、いつまでも彼は覚えていて嬉しそうに語ったらしい。
 小樽に着いてからも、公園に出かけたり、中心街のアーケードにある店で、彼がファンだった巨人(ジャイアンツ)の帽子を買ってくれたりしたようだ。
 それらのことは一切僕は忘れていたが、小樽の高台ににある官舎で過ごす僕が退屈しないように、定期的に購読する付録のいっぱいついた子供向けの購読本を届けさせてくれていたことは憶えている。
 結核医だった祖父の住んでいる官舎の周りには、僕と同じ位の子供は一人しかいなかった。進くんといったが、彼と会うのはまれでしかなく、殆どは官舎の裏にあった砂場で遊ぶか、年老いた夫婦の生活する家財に囲まれた殺風景な家の中で遊ぶしかなかった。

 砂場には大きな石がいくつも転がっており、それをひっくり返すと何匹ものわらじ虫が石の重みでへこんだ窪みに群がっていた。
 庭の周りにはおんこの垣根があって、赤い実をとって食べると甘い味がした。おんこの垣根の下は切り立っていて、その下は結核病院を横切ってその奥には石切場がありそのあたりから続く赤土の道が続いていた。
 夕方決まった時間にその石切場で仕事を終えた人足が大抵2人連れくらいで坂道を下ってくる。黒い装束に地下足袋を履いたその人足が、電柱に群れを為して止まっている烏と同類の不気味な様子で、石切場の向こうに赤く染まった夕焼けをバックにやってくるのを、僕はおんこの垣根からいつも覗いていた。彼らに見つかりはしないかと僕は怖れて身を隠していた。
 石切場には、無人のトロッコが線路のうえにあって、誰もいない時には乗ってみたりもした。ひとりでは動かすことも出来ないので、小樽に来るときに乗ってきた蒸気機関車と同じ車輪や線路に見とれて、動かせたらなと憧れていた。

 家の中には、竹で編んだ鳥かごのなかに、カナリアがいた。裏の物置にはチャコという雌猫がいた。しかし彼らは僕の友達ではなかった。彼らは自分の圏域を出ず決して友好的ではなかった。
 僕が良く弄っていたものには、水車の回る藁葺きの家をかたどったオルゴールがあった。水車の輪をギリギリと回すと、今では忘れてしまった曲がもの悲しく鳴った。水車の下には水が流れていた。
 他にはトランプがあって、その絵札を選び出しそれを人形に見立てて物語りをつくるのが好きだった。スペード、クラブ、ダイヤ、ハートそれぞれに描かれたジャック、クイーン、キングの絵柄の特徴に象徴的な性格を感じ話し合わせ、戦い、慰め、笑い、共に食し、出かけ、誰と誰は仲が良く、誰と誰は喧嘩をするという無数の物語を飽きずに創りだしていった。そういう夢想が随分後まで習慣となったことだった。2,3歳の頃のことである。

 そうなのだ。こどもにとって夢想とリアルが出這入りする媒介になっているものの一つに絵本がある。
 
 今から13年前まで障害児の療護施設で働いていた。そのなかの数人のスタッフで障害をもつ子供とその母親とで5日間のスケジュールで「母子訓練」という名称で行っていた。
 母子訓練とは少々型ぐるしい名前だが、お母さんには日ごろの子育ての疲れを癒すためと、母親同士の交流やコミュニケーションによって辛いのは自分だけではないという気持ちを抱いて欲しいという意図から、また子供たちには発達の評価や遊びを通した療育の経験をさせることを主眼としていた。
 そのなかで夕食前に絵本の読み聞かせの時間をつくった。それが僕の役割だった。動物の着ぐるみをきて、ベルを鳴らしながら子供たちの前に登場する。
 椅子にすわってもうひとりのスタッフと交替で一冊ずつ読んで聞かせるのだが、子供たちの反応もさることながら、色んな意味で学ばされることが多かった。
 あるとき、絵本を読んでいると、どこからか読んでいる文と同じ声がする。
 え?と思いつつ続けたのだが、後でお母さんから聞くとその絵本は家で繰り返しよんでいたもので、絵本に描かれた絵を見ただけで中身がわかってしまったのだということがわかった。

 もうひとつ、相方のスタッフがリンゴの様々な状態や色の絵と「これはリンゴです」という文が反復された絵本を読んでいて、「リンゴです。リンゴです」と矢継ぎ早に読んでしまったので反応が悪かったという話だ。
 スタッフからすればリンゴだということははなからわかっている。それをただ繰り返してしまった。もっと抑揚や間を置いた読み方をすれば、同じリンゴでも齧られたリンゴもあれば、赤いものや青いものもあるといったリンゴというものの概念を多様な表象で感じるということに気づかづに読んでしまったという失敗だ。

 これは後年、小林秀雄のこの言葉を連想させた。つまり、
「言葉は目の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫か、と諸君はもう花の形も色も見るのをやめるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が諸君の心のうちに這入ってくれば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見たこともなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は皆そういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見ているのです。」

 リンゴというモノを様々な状態でとらえ、それが単一のアイコンとしてではなく様々な連想のなかで生き返させる心を幼い子供たちにも感じさえたかったのだなということを思わせた。
 言葉に騙されたのは大人のほうだったのだ。

 絵本はシンボルとしての絵と口伝えとの連結だ。
 そもそも本は音読されていたことは、中世の僧侶が書物を一人一人の仕切りのなかで声に出して読んでいたことは、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』の映画化されたもののなかにあるし、日本でも平安時代の絵巻に部屋越に女官が物語を読んでいるのを聞いている貴族の姿にもみられる。
 小倉百人一首は錦絵とともに和歌が詠まれているという具合にオラリティな読まれ方をしていた。
 それが黙読に変わったのは、活版印刷が発達してからだという。それからは「無意識」が生まれたというのだが、マーシャル・マクルーハンの説だがどうだかわからない。

 幼児も少し大きくなれば文字も覚え、読みながら絵本を楽しむようになる。大方はやはり声に出して読まれる。
 
音読の効果がどこにあるのか、黙読には黙読のそれなりの効果がどのようにあるのかということは、いまのところ決定的な評価の決着がついていないと見たほうがいいのだが、しかしそれでもなお、音読と黙読の関係は、言語習得のプロセスに密接な影響をもたらしてきたとみなせるし、また、コミュニケーション能力の大きなキャスチングボートにもなってきたともみなせそうなのだが、どうもそれだけではないような気もする。

 さて、今日の一枚。
 ミッシェル・サダビーの「Blue Sunset」。
 上のとは違うジャケットのもあるが、僕はこちらのほうが好きだ。
 哀感というのを日本のジャズ・ファンの多くが持っているという人もいる。
 つまりマイナー調がいいということだが、はたしてそうひとくくりにもできまい。
 しかし、アルバム名にもなっているBlue Sunsetを聞くと嫌でもそう頷かずにはいられない。
 かなりしばらくの間、僕の愛聴盤であって、職場から帰ると真っ先に聞いたという時期があった。
 サダビーのなかでは後年の「in New York」は今では好んで聴くが、サダビーの僕にとっての原風景というようなことでいえば、やはりこの盤になる。

 
 
 

by jamal2 | 2019-01-23 11:42 | 千日千話 | Comments(0)

本、ジャズ、映画・落語・プラモデル・・・ディレッタントな日々


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