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表現の自由について

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 つい最近「表現の自由」について興味深い出来事があったのだが、ある展示会の開催をめぐって表現を不当に抑制されることに対してのアピールする行為とそれを不適切として中止を決定した行為との間に異なる反応が衝突したことを踏まえて、いやーな感じとある意味よく考え直してみるにはいい機会じゃないか、その両方の感想を持ってことの経緯を見守りたいという気になった。


 作品展示の内容からして二国間の冷えた関係があるなかで歴史認識の相違を含めての確執からくるものと、今更と思う「不敬」についての反応という極めてナショナリスティックな不気味な動向を感じてしまう。
 と共にこれは表現の自由に関わる政治的な色彩をもつ倫理観の異なる思想の対峙とも受け止められ、改めて表現に対する倫理の問題を浮かび上がらせる事態ではないかという感想もある。

 そこでそもそも表現とはということと、倫理というものが絶対的普遍性と歴史的風土的に限定された社会構造として、特殊な形をもちつつ変遷する倫理という両面があるなかでの表現に関することとして考えあわせなければならないと思われる。
 これはまた現前され提出されている表現が知覚、アイデンティ、言語、批評の根拠、時間や空間、制度などの共通感覚として判断力=常識を問われると同時に「意味場」としての場としての約束事にも抵触する事柄でもあろう。
 
 表現に関する倫理の思想が変わらぬ普遍性に規定されると同時に歴史的風土的に限定された社会構造として、特殊な形を持って変遷する、つまり「時と処とによって異なった形態をもつ」という当然さは抑制にも働くし変革にも働くという動向として現出してくる。
 言い換えれば倫理思想というものは、共同体の秩序を保持する理念であるが、その普遍性に対して歴史的風土的という限定性においては疑念や破壊も変革も是非を問わず必然的に起こりうるそういう可能性のなかでの表現のことということになるであろう。
 そういうことは誰でもきずく「常識」ともいえる。
 たとえ殺傷や略奪や姦淫でさえ、国が違えば異なるし時代のある時期には是認されてきた。そういう前提にたてば「常識」だといえる。
 
 戦後に改定された日本国憲法に示された民主的条項の一件としての表現の自由の規定と拘束力は普遍的倫理にあたるのかもしくは相対的倫理なのか判断に迷うのは浅学のせいでしかないが、すくなくとも歴史的ある段階においてはある表現が法的拘束力もなく抑圧され取締を受けていたことは事実である。
 ある表現は公に許されある表現は取締を受けていたということ自体については、そういう歴史的事跡が当然あったし当然ありうることとして受け止められている。
それは人間は社会的存在として個人の表現であれ制約をうけるという自明性も基づくものである。
そういう自明性と社会的に通用されている「常識」との関連性は極めて説明の難しい問題であるので後で触れたい。

 話題を少し変えてみたい。
 表現ということで今回のことに触れて連想的に思い出したのが、ピカソの「ゲルニカ」という作品のこととデュシャンの「泉」という作品についてである。
前者の作品については第二次世界大戦という時勢おけるパリ万博に出展された作品であるという意味性と後者は「場」の意味性の関わる事柄である。
 ゲルニカがパリ万博に出展されるに至った経緯は、モロッコにおける反乱軍の蜂起が共和制のスペイン本土に飛び火し人民戦線との内戦状態となったスペインにおいて、フランコが独伊に対し援助要請し、ドイツは空からイタリアは陸からの支援を開始したが、マドリードでの膠着状態、グアダラハラでのイタリア軍の敗北などを通してゲルニカを含むバスク地方へ攻撃の照準を定めていった。終始戦況をリードしたドイツ軍がスペイン北部のバスクに照準を充てたのは支援と引き換えにその鉱物資源を手に入れることを期待したからだ。
「ビルバオの鉄鉱石をドイツの重工業に供給する必要は、ヨーロッパの平和をめぐる他のいかなる配慮より重要であります」(ヒトラー)
というようにゲルニカの西に隣接し海岸地帯に接するビルバオをドイツ軍が占領する意義は、軍事経済的に二重の意義があった。ビルバオ占領により輸送ルートが短縮され鉱石輸送が強化される、また拮抗しているイギリスの軍備計画に打撃を与えることであった。
『ゲルニカ物語』の著者はこの一般市民を巻き込んだ非道な爆撃について力点をおいて紙幅を割いている。この無差別爆撃とは、戦線を後方から支える生産・輸送などの経済的拠点に打撃を与えるという以外に、戦略爆撃の重要な狙いは、無差別の大量攻撃によって一般市民の戦意を低下させることことにある。コンドル軍団の都市爆撃にも、当然このテロ攻撃の意図が含まれていたと指摘する。再軍備期にあったドイツにあって、スペイン内戦は新兵器や新戦術の格好の実験場となったのだが、ヒトラーの頭のなかにはこのテロ(恐怖)の為の爆撃という考え方に終始固執する面があった。

こういう情勢のもと、パリ万博への出展を依頼されていたピカソ自身は当時プライベートなことで問題を抱えていた。元ロシア・バレエ団のバレリーナだった妻オルガ・コクローヴァとの結婚生活の破綻の一方若い愛人マリー・テレーズ・ヴァルターとの愛情生活の狭間で苦しんでいた。マリー・テレーズの妊娠によってオルガと離婚するのだが、国柄カソリック国のスペインの国籍を捨てない限り離婚はむずかしく、法的手続きについて何か月も弁護士と協議したあげく、離婚という考えを放棄しオルガとは別居ということになった。そのころの彼の心理状態はかなり荒れたものだったようで約20ヵ月にわたって絵を描くことをやめていた。
にもかかわらずピカソがこの苦悩の期間を経て『ゲルニカ』の製作に立ち向かうようになるのだが、当初構想していた「フランコの夢と嘘」という作品を捨ててゲルニカ創作に向かう。それはいうまでもなく故郷スペインのゲルニカにおける無差別爆撃の惨状を無視できなかったからだ。『ゲルニカ物語』の著者は幾度となく変容するスケッチのなかの諸シンボルの行方とその意味合いの変化を追って解釈を図っている。その謎解きめいた解釈を追っていくとある種感動に似たものを感じるが、諸シンボルである牡牛、馬、灯火を掲げる女、横たわる兵士、電灯、死んだ我が子を抱える女等がスケッチごとに構図上の位置が変わり描かれ方が変化していくに従って、そのひとつひとつのシンボルの意味が違ってきたり逆転したりという解釈を施し、最終的には古典的なテーマである「黙示録」にまで行きつくと同時にその政治性について言及する。

 「ゲルニカ」出展がなされたパリ万博の様相はこうだった。
この年のテーマは「近代生活における芸術と技術の国際博覧会」として開催された。時代の寵児ともいうべき航空機はその象徴であり数多くのパヴィリオンのなかでひときわ人目をひいたのが「航空館」であり、主ホールの円天井から実物の飛行機が吊るされ、それをいくつもの透明なリング状の円筒形の通路がお互いに交差しながらとりまき、自由に空間を飛行できる人間の達成を誇示するようにみえた。

また急速な変化を示しはじめた建築の世界にも注目があった。フランスのル・コルビュジエやドイツのバウハウスといったモダニズムの建築は、鉄、コンクリート、ガラス、プラスチックなどの大量生産資材を使って、簡素な機能美を実現していた。

主会場の中心には、不況下で既成の施設を転用された例もあるなかで、新たに建てられたトロカデロ宮(シャイヨー宮)が全体の正面を形作っていて平和にかんする世界史のエピソードにちなむ展示物が配置されるなか、一際目を惹くのが当時のスペインを描いた大きな写真壁画だった。1936年スペインでは共和主義諸党、社会党、共産党などによる人民戦線政府が誕生するも、植民地モロッコで軍部の反乱がおきてスペイン本土の各地でも内戦状態になっていた。その運命の七月十八日に撮られた二組の写真で構成された写真壁画には一組は内戦下でもなお営まれていた市民たちの平和な生活と、もう一組は学校を爆撃されたあとの子供たちのむごたらしい犠牲を描写しているものであり、戦争の悲惨のシンボルとしての「飛行機」による爆撃がとりあげられている。

テーマ館と国別館とがあるなかで主会場のトロカデロの解放感と軽快さに反して平和のイメージにそぐわない巨大な二つの国別館があった。セーヌ河寄りに互いににらみあっているような建物、ドイツ館とソ連館であった。

 という雰囲気のなかで出展されたのだが、展示を観覧した人々の反応は様々だった。
 しかしピカソ自身はこう語る

「絵というものは、事前に考え抜かれて定着されるものではない。制作の途中で、思想が変化するように絵も変化する。そして描き上げられた後でも、それを見る人の心の状態にしたがって変化し続ける。絵というものは、日々の生活によって私たちに課されるような変化を経験しながら、生き物のように生涯を生きる。絵はそれを見る人の目を通してのみ生きるのであるから、これは全く当然のことであるが。」
「絵はそれを見る人の目を通してのみ生きる」とは至言であると同時に、一旦描かれた作品は作者の手を離れてそれを見る者の器量に委ねられる「怖さ」を孕んでいる。パリ万博においてスペイン館を訪れた者に去来する印象や感想は多様であったし、戦後各国を巡回した際にも同様の反応があったことが記されているが、シュールレリアリスティックな作風故に、また主題の政治性故に捉え方の賛否はもとより解釈の仕方の違いがあるのだが、最早作者はそれを傍観する立場にしかいない。様々な論評を横目にみて1940年代はじめにこう語った。

「牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。・・・もし私の絵のに何か意味をもたせようとするなら、それは時として正しいかもしれないが、私自身は意味を持たせようとはしていない。君らが思う考えや結論は私も考えつくことだが、私の場合は、それは本能的に、そして無意識の表出だ。私は絵のために絵を描くのであり、物があるがままに物を描くのだ。」

 ファシズムに対抗する政治的意味合いと受け止めれば極めて反語的な言葉だろう。

 もう一つの作品デュシャンの「泉」という作品は1917年のニューヨークのアンデパンダン展に出展されたもので、出来あいの白い男性用便器をひっくりかえし、取り付け口を下にして置いて「泉」と命名しただけのものだった。
デュシャンはこの「泉」リチャード・マット、リチャード(リシャール)はフランス語の俗語で「成金」を、マットは英語の俗語で「のろま」とか「あほう」とかを意味する、とただ署名しただけで匿名で送りつけた。しかし人々はこれを、スキャンダラスな、たちの悪いいたずらだと思い、また審査員会によって陳列を拒否された。
そういう経緯を持つものである。

 このエピソードを取り上げた中村雄二郎は著書『共通感覚論』のなかで、
「ただの小便器を倒しただけのデュシャンの『泉』の陳列は、まずこのような展示会場の<場としての約束事>(=暗黙のうちに設けられた境界線)におよそ適わなかった。いや適わなかったというよりも、はじめから適おうとせずに、そういう約束事を、「成金」の「あほう」の、つまりブルジョア美術の約束事として、それにはっきり挑戦したのである。」
と。
また、
デュシャン自身、この『泉』について次のように書いている。「私の小便器による<泉>は、好みについての練習問題という着想から出発したものです。好かれることなどおよそなさそうなものを選んだのです。小便器のすばらしさを見出す人はほとんどいません。危険なのは(いわゆる)芸術的な快さなのです」
また、「ここには、問題となっているのは「好み」であること、すばらしいものをすばらしいと見るのを妨げているのは、<制度としての美術>であり<制度としての展覧会>であることが、よく自覚されて捉えられている」
と。

 この二つの作品を想起することで問題となるのはどのようなことであろうか。
 
 小林秀雄は「表現について」という小論で
「expressionの表現という訳語は、あまりうまい訳語とは思えませぬ。expressionという言葉は、元来蜜柑を潰して蜜柑水を作るように、物を圧し潰して中身を出すという意味の言葉だ。もし芸術の表現の問題が、一般芸術上の浪漫主義の運動が起こった時から、やかましくなったということに注意すれば、expressionという言葉のそういう意味合いを軽視するわけにはゆかぬことがわかる」
と説明した。
 ヨーロッパにおけるロマン主義の時代という区画、つまり古典主義(カトリシズムを背景とした)の表現の一様化からの脱出という時代に「表現」ということが取沙汰されたという経緯は、そこに歴史変革、政治変革という批判性が内包して画一的でない自由な表現を求めていたことを示す。

 ここで示したいくつかの考える要素とさらにいくつかの要素を含めて自分なりに整理してみたいと思う。




 



# by jamal2 | 2019-08-06 10:38 | 文化 | Comments(0)

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