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中勘助『銀の匙』~私のなかの「銀の匙」その1

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この中勘助の『銀の匙』を読むと必ずしも同じ経験をしているわけではないのに、幼い時の記憶の襞にすっと入ってきて、そこをくすぐるようにその頃の自分の頭に流れていった思いが次々と思い出されて勘助の回想に同化してくる。
私の場合は勘助にとっての叔母ではなく、勿論父母や兄弟もそのなかに入るが、しかしながら祖父母が主な相手であり、且つどちらかというと独り遊びの世界に浸るという日々の記憶だ。

弟が生まれると言う時期が、私にとって独り遊びの発端となった。釧路に赴任していた父の家に祖父が私を迎えに来て、夜汽車にのって祖父の官舎のあった小樽へと向かった。
 私はその夜汽車が寝台列車で、初めての経験として寝台に寝ると云うことがとても驚きで愉快だったらしい。
「これ(寝台)はいいね」などと祖父に云ったらしく、いつまでも彼は覚えていて嬉しそうに語ったらしい。
 小樽に着いてからも、公園に出かけたり、中心街のアーケードにある店で、彼がファンだった巨人(ジャイアンツ)の帽子を買ってくれたりしたようだ。
 それらのことは一切私は忘れていたが、小樽の高台にある官舎で過ごす私が退屈しないように、定期的に購読する付録のいっぱいついた子供向けの購読本を届けさせてくれていたことは憶えている。
 結核医だった祖父の住んでいる官舎の周りには、私と同じ位の子供は一人しかいなかった。進くんといったが、彼と会うのはまれでしかなく、殆どは官舎の裏にあった砂場で遊ぶか、年老いた夫婦の生活する家財に囲まれた殺風景な家の中で遊ぶしかなかった。

 砂場には大きな石がいくつも転がっており、それをひっくり返すと何匹ものわらじ虫が石の重みでへこんだ窪みに群がっていた。
 庭の周りにはおんこの垣根があって、赤い実をとって食べると甘い味がした。おんこの垣根の下は切り立っていて、その下は結核病院を横切ってその奥には石切場がありそのあたりから続く赤土の道が続いていた。
 夕方決まった時間にその石切場で仕事を終えた人足が大抵2人連れくらいで坂道を下ってくる。黒い装束に地下足袋を履いたその人足が、電柱に群れを為して止まっている烏と同類の不気味な様子で、石切場の向こうに赤く染まった夕焼けをバックにやってくるのを、私はおんこの垣根からいつも覗いていた。烏と彼らは仲間で彼らに見つかりはしないかと私は怖れて身を隠していた。
 石切場には、無人のトロッコが線路のうえにあって、誰もいない時には乗ってみたりもした。ひとりでは動かすことも出来ないので、小樽に来るときに乗ってきた蒸気機関車と同じ車輪や線路に見とれて、動かせたらなと憧れていた。


 家の中には、竹で編んだ鳥かごのなかに、カナリアがいた。裏の物置にはチャコという雌猫がいた。しかし彼らは私の友達ではなかった。彼らは自分の圏域を出ず決して友好的ではなかったから、私の入り込む隙がなかった。
 私が良く弄っていたものには、水車の回る藁葺きの家をかたどったオルゴールがあった。水車の輪をギリギリと回すと、今では忘れてしまった曲がもの悲しく鳴った。水車の下には水が流れていた。
敢えて言えば勘助の銀の匙にあたるのは、このオルゴールだったかもしれない。
 他にはトランプがあって、その絵札を選び出しそれを人形に見立てて物語りをつくるのが好きだった。スペード、クラブ、ダイヤ、ハートそれぞれに描かれたジャック、クイーン、キングの絵柄の特徴に象徴的な性格を感じ話し合わせ、戦い、慰め、笑い、共に食し、出かけ、誰と誰は仲が良く、誰と誰は喧嘩をするという無数の物語を飽きずに創りだしていった。そういう夢想が随分後まで習慣となったことだった。4,5歳の頃のことである。

 そういう独り遊びが得意だった私は、学校にあがってからも独りでおかれることに何ら苦痛は感じなかった。
 勿論、私と同世代の子供が夢中になる遊びがそれに加わるのだが、たとえ独りに放っておかれても苦になることはなかった。

何故自分は独りでいることに苦痛や寂しさを覚えなくなったのだろう。
 ひとつ思い出すことがある。
 私には二歳年下の従兄弟がいた。私は彼の辿った人生を思う度にやりきれなさを思うのだが、恵まれた医者の一人息子として生まれ、叔母(彼の母)は小さい頃からピアノに向かわせ、従兄弟である私らが無邪気に遊んでいる合間も、彼は叔母の熱い指導の下に小さな指をピアノの鍵盤に健気に這わせなければならなかった。
 丁度夏休みだった私と兄は、二人で旭川の旧桑島病院であった格式のある家に遊びに行っていた。決まった時間にそのピアノの試練があり、傍らで彼と叔母のやりとりを見ながら痛々しいものを感じていた。何回となく同じ曲はやり直しをさせられ、間違う度に叱責を食う彼が多少の反抗も試みるが結局叔母のいいなりに間違いを訂正せざるをえず、彼の背中から感じる母への反感と忠誠の混じった汗を不条理に思えた。
 しかしその苦役が済むと、従兄弟は子供らしい私と兄の遊び仲間になった。兄はあの時何をしていたのだろう。この家に巣くう異様な空気のなかで、遊び相手としても物足りない従兄弟を感じていただろうから、機会を見つけて家に帰ろうとしてことは確かだ。
 兄は私をおいて札幌に帰った。
 頼りにしていた兄が帰った後、心許なさから消沈し夜布団のなかで泣いた。
 兄は夜、小用にいく私に付いてきてくれ、慣れない様式便所に零した私の小便を拭いてくれた。私と兄は従兄弟を自分の側に引き入れようと、互いに牽引しあった。その兄が、帰った後、あることに私は気が付いて独り残されたことに喜びを見いだそうとした。
 これで従兄弟は私のものだ。
 更に予定していた札幌への帰省が、いつであることを意識し、後何日すれば帰れるのだという見通しを持ったこと、この二つのことに気づくことで私は元気づいた。

 幾日か経って、予定通り札幌に帰る日が来て、ひとり汽車にのった。私に取って初めてひとりで汽車に乗ったことになる。私の座った座席の周りは見知らぬ大人ばかりで、終始無言で車窓の外ばかりをみていた。
 夕方札幌駅につき、そこからタクシーに乗って家にたどり着いたが、それまでの行程あまりに緊張したせいで、お腹が痛いような気がして玄関に入るや母にそのことを泣いて訴えた。
 やがて父が帰ってきて近所の病院に私をおぶって連れて行ってくれた。父の背中が心地よく、病院についた時にはすっかりお腹の痛さもなくなり、どんな処置をされたのかは忘れてしまったが、ホッとした気持ちで家路についた。
 我が家の懐かしい匂いに安堵していた。

こういった記憶が勘助の綴る「記憶」と重なってきて、ひとつひとつのエピソードに気持ちが寄り添うのだ。
(つづく)



by jamal2 | 2023-02-27 12:43 | 古本かジャズ | Comments(0)


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